「させていただく」が流行するわけ2011年08月28日

 最近、経歴や予定を語るのに「~させていただく」という言い回しがされることが増えた。
 たとえば、タレントがテレビで「○○に出演させていただきます。」などと告知するような場合だ。
 この言い回しに対して、敬意が過剰だとか敬語として間違っているという意見を耳にする。
 間違っているという説では、実際に相手に許可をもらうわけでないからこの言い方は変、ということらしい。かわりに「~いたします。」のような謙譲語の方がふさわしいのではないか、という意見も聞く。  これについて考えてみた。

 この言い回しに過剰感があるのは確かだと思う。
 ただ、間違っているとは思わない。
 かつてない敬語の使われ方が現れるのは、敬語を使う理由となる道徳や思想に変化があったからだろう。最近の世間が求める道徳には、この言い回しはうまくフィットする。

 その世間の求める道徳とは、「すべては皆様のおかげ」 だ。
 相手から許可を得て自分の行為があるように述べるのは、
 「今あるのはみなさまのおかげだと感謝していますよ。」
 というメッセージを込めているからだ。

 このような謙虚すぎる思想が現れた理由の一つは長引く不況だろう。
 好景気の時には自分の得た仕事や経歴はみな自分の実力とみなすのが当たり前だったが、最近では自分だけの力ではないという感覚を持つ人も増えただろう。

 しかしながら、実際にこういった思想が一気に広がったのは自発的な謙遜よりは、社会的なプレッシャーを受けてのことではないかと私はにらんでいる。
 もともとは功成り名遂げた人物が
 「自分の功績は世話になった人の尽力のおかげだ」
 と語って世間から徳の高さを賞賛されるべき性質のこの思想だが、最近は当然視され、濫用されて、他人の功績に直接関係ない人が、
 「すべては皆のおかげなのだから恭順をしめせ。」
 と迫るような使われ方をされている。

 この数年で、何人かの若いタレントやアスリートが、言葉遣いや態度が悪いとメディアから盛大にバッシングを受けた。
 かつてなら陰でチクチク言われる程度の他人のマナーがおおっぴらに俎上に載せられて、寸分の活躍の場も奪おうかという勢いでバッシングされるのは、
 「公衆の人気や公金によるサポートを受ける者は皆のおかげで今があるのだから、公を形成する無関係な一個人にでさえ礼を失した態度は許すまじ。公の力で排除すべし。」
 といった考え方が蔓延しているからではないか。
 自分がターゲットになることを思えば、このような社会の空気は脅威だ。人気商売のタレントが自分の生殺与奪権を持つ不特定多数の見えない相手に対して敬語を使いだしたのは当然の成り行きだ。
 「~させていただく」という言い回しになるのは、その行為をしたいのは発言者だが、敬意を表されている公衆は別にそれを望んでいるわけではなく、その気になればそれを阻止できるという実態を受けているのだろう。
 「~いたします。」といった言い回しにならないのは、その言い回しでは「相手を喜ばせるために」その行為をするといったニュアンスに受け取られる可能性があるので、自分の活躍を望んでいるとは限らない相手に使うにはリスクがある。

 「~させていただく」という言い回しは有名人のみならず使うようになったが、理由は同じことだ。誰しも学校なり職場なり自治体なり、なんらかの公のものに所属している。直接世話にならずとも、先に公のものに所属して公を形成した人々が存在しなければ今のありようはない。ということで謝意を表しつつ自分の存在を認めてもらいたい、という気持ちでこの言い回しが出てくるのだ。

 「~させていただく」の評判が悪いのは、発言者が持つ警戒心が伝わるからだろう。しかしこの言葉使いを責めたところで汎用される流れは変わらない。
 敬語を使う動機は、相手に敬意を示していると知らせることだ。どんなにおかしいとやり玉にあげられても、この言い回しをする人が敬意を示そうとしていることは否定されないだろう。しかし、言語学者に適切と認められる言い回しでも、伝えたい相手に敬意が足りないとみなされては意味をなさない。
 世間が求める道徳性や敬意の対象が広がり強まる限り、この言い回しは廃れない。
 どうしてもやめさせたいのならば、
 「個人の功績は個人のもの、個人の悪癖も個人のもの。他人に口出し無用。」
 という考え方を主流派になるまで盛り返すしかないのでは。