助詞「は」と「が」の違いとその働き 1 ― 2012年02月22日
助詞「は」と「が」の働きとその違いの説明を思いついたので書いてみる。
この説明だけでは抽象的でわかりにくいので例を挙げてみる。
例1.
喫茶店で給仕人がコーヒーと紅茶を運んできたとする。
給仕人がコーヒーを誰のところに置こうか迷っているな、と感じた時、コーヒーを頼んだ人が「私がコーヒー。」と言う場合、その人は給仕人の意識にある「コーヒー」に自分を結びつけ、自分がコーヒーをもらう対象だと知らせている。「コーヒー」という意識が先行してそれに「私」を結びつけるので、「が」が使われる。
同様のケースで「私は紅茶。」と言う場合、まず給仕人に自分を意識させ、その上で自分と紅茶を結びつけ、自分が紅茶をもらう対象だと知らせている。「私」を意識させてから「紅茶」を結びつけるので、「は」を使う。
例2.
知人と散策していたとする。不意に目の前に水の流れが見え、それが川だと認識したとする。
上記の例は、目の前にある実体から視覚情報によって得たイメージをそのまま認識に取り込んでいるので、文中で何を示すのかがわかりやすい。視覚によらない認識やイメージの一部を使った認識の例を次にあげる。
例3.認識の提示状況によって解釈が変わる例
「花」と「美しい」を「は」や「が」で結ぶときの解釈をパターンごとに説明する。
パターン1:認識に特定の実体イメージが見当たらない場合
1-1.「花は美しい。」という一行で成る文を読んだ場合の言葉の意味。
解釈:一般的に花というものは美しいものだ。
解説:まず「花は」まで読むと、読者は認識の中に「花」に該当するものを探す。この文に関して何らかの情報があれば、「書かれた時代の人々の共通認識からしてこの場合の花は桜。」のように同定できる場合もあるが、今回の例では何の情報もないので、特定の「花」に同定できない。そこで花に関しては保留し、続きの「美しい」までを読む。一般的に花は美しいとされているので、この情報では「花」を特定できない。よって、読者の脳内にある「花」という一般概念を思い浮かべ、意識の中心に置く。そしてそこに「美しい」という認識を結びつける。一般的な「花」に「美しい」という認識が結びついて上記の解釈となる。
1-2.「花が美しい。」という一行で成る文を読んだ場合の言葉の意味。
解釈:何らかの花のイメージに対し、その美しさに感銘している書き手の気持ちをそのまま表している。
解説:まず「花が」まで読むと、読者は認識の中に「花」に該当するものを探す。何の情報もないので、該当するものがみつからない。とりあえず受け手は適当な「花」のイメージを仮に思い浮かべる。次に「美しい」まで読んで、「美しい」という概念の実体イメージである「美しい」と思う実感を意識し「花」のイメージを結びつける。実際には読者にはそんな実感はないので、経験から美しいものを見たときの気持ちを再現して意識する。結果的に読者は花を見て美しいと感じる気持ちを疑似体験する。よってこの文は花の美しさに対する書き手の主観的な感銘の気持ちをダイレクトに表したものと受け取れる。
以上がパターン1の解釈だが、上記はあくまでも独立した一行文だという前提での解釈で、この文の前後いずれかに他に文がある場合、その中で読者に何らかの認識が明かされるならば、その際は必ずしも上の通りの解釈にはならない。それはパターン3で説明する。
パターン2:認識に特定のイメージが存在する場合
2-1.花飾りのついた帽子を前にして「花は美しい。」と聞かされた場合の言葉の意味。
解釈:この帽子の花飾りは美しい。帽子そのものには感心しないが。
解説:まず「花は」と聞くと、聞き手は認識の中に「花」に該当するものを探す。視覚によって得た花飾りのついた帽子のイメージが認識にあるので、花飾りがこの場合の「花」と同定される。そこで花飾りを意識の中心に置く。次に「美しい」と聞いて、花飾りに「美しい」という(発言者の)認識を結びつける。この過程で「『この帽子の花飾りは美しい。』と発言者は思っている」という解釈が生まれる。一方、「花飾りのついた帽子」という限定的なイメージの中で、わざわざ花の部分だけに「美しい」という認識へのリンクが付加されたことで、除外された帽子本体については発言者が意図的に選択して「美しい」と言うことを避けたことが暗に感じられる。そこで帽子本体に関して否定的なニュアンスが加わり、上記の解釈となる。
2-2.花飾りのついた帽子を前にして「花が美しい。」と聞かされた場合の言葉の意味。
解釈:この帽子では特に花飾りの部分が美しい。
解説:まず「花が」と聞くと、聞き手は認識の中に「花」に該当するものを探す。視覚によって得た花飾りのついた帽子のイメージが認識にあるので、花飾りがこの場合の「花」と同定される。次に「美しい」と聞いて、(発言者の)意識にある「美しい」と思う気持ちに花飾りを結び付ける。発言者はまず総体としての帽子を見て「美しい」という意識を持ち、その意識に「花飾り」のみのイメージを結び付いていることから、「発言者は帽子を見て美しいと感じたが、その理由は花飾り部分にあると判断した。」という状況が浮かび、上記のような解釈となる。
以上がパターン2についての解釈だが、パターン1に比べて具体的な前提となる認識があるため、認識の何が語られ何が無視されたかによって相対的な言外のニュアンスが加わってくる。パターン2-2では発言に至る意識のタイミングがどうであったかでも言外のニュアンスが生まれている。
パターン2は視覚によるイメージであったが、文章による認識設定があるパターンを次に見る。
パターン3:前後の文で特定の認識が明かされる例
3-1.「すべては美しいか醜いかだ。花は美しい。」と言う文章の2文目。
解釈:花というものに関しては、自分にとって美しいか醜いかでいえば、美しいほうに分類する。
解説:1文目で書き手は「すべては美醜の二律背反である」という認識を持っていることが示されている。
2文目の「花」は何の条件もないので一般的な花と解釈するが、書き手の認識にある「すべて」という把握不能な大きな集合から「花」という概念のみに言及しているので、「他はどうか知らないが花に関しては」といったニュアンスが出る。また「美しい」に関しては、この書き手の認識では二律背反である美醜の「美」の方というニュアンスになる。
この例では2文目を「花が美しい。」と置き換えると違和感のある文になる。「花」だけを「美しい」という認識に結び付けてしまうと「花以外のすべてのものは醜い」ということになってしまい、わざわざ二択理論を前に出す意味がなくなり論理的に破たんを感じるため。
3-2.「花は美しい。サボテンを見てナオミは思った。」と言う文章の1文目。
解釈:このサボテンに咲いている花は美しい。花以外の部分は美しくないが。
解説:1文目だけを読むと1-1のパターンのように「一般的に花というものは美しいものだ。」と読めるが、2文目で1文目は新たに登場したナオミなる人物の意識であったことが明らかになる。その際、ナオミなる人物の認識には視覚によりサボテンのイメージが入っている。よって1文目の「花」はナオミが見ているサボテンに咲いた花と推定できる。サボテンのイメージの中で花部分のみ「美しい」としていることから、サボテンそのものは「美しい」ものではないとナオミなる人物が考えていることがわかる。
この文章では書き手は相手の知りようのない認識を後から出してきているので2文目を読んだ後から1文目の意味合いが決まる。読者は一瞬混乱し、警戒して用心深く読むようになる。結果的に読者は文章にのめりこむこととなる。わざと背後の認識を後出しすることで読者をひきつけるテクニックといえる。
このパターンでは、1文目は「花が美しい。」と置き換え可能だ。その場合は、「このサボテンでは花が特に美しい。」といったニュアンスになる。(パターン2-2と同様の解釈により。)
「AはB」の構文で、パターン1-1のように認識の提示がなくてもAを一般概念ではなく特定の実体として解釈する例:
助詞「は」と「が」の違いとその働き 2に続く
- 「AはB」という文では助詞「は」は、Aを意識の中心に置き、Bを結びつける働きをする。
- その際のAとBは、認識の中に該当する特定の実体イメージがあればそれを、なければ一般概念として採用する。
- 「AがB」という文では助詞「が」は、Aを意識にあるBに結びつける働きをする。
- その際のAとBは、認識の中に該当する特定の実体イメージがあればそれを、なければ仮想のものとして採用する。
- 上記の「意識」とは、今まさに処理されている、脳内で顕在化している情報を指す。
- 同じく「認識」とは、経験や知識として脳内に蓄積されている、必ずしも顕在化しているとは限らない情報を指す。
- どちらも意識している情報に他の情報を結びつける働きをする。
- 情報が意識されるタイミングは「は」は言葉が発された時で「が」は発される前。
-
「は」の語順は、助詞の前に「意識すべき情報」、後に「意識に結び付ける情報」となる。
まず意識しないことには他の情報を結び付けられないのでこの語順になるのでは。 -
「が」の語順は、助詞の前に「意識に結び付ける情報」、後に「既に意識している情報」となる。
既に意識している情報は自明なので後回しにし、この語順になるのでは。 - どちらも情報に対し該当する特定の実体イメージが認識上にないかサーチしてヒットしたものを優先的に用いる。
-
情報に特定の実体イメージがないとき、「は」は一般概念としてとらえる。
不確かなものは意識できないので意識すべき情報はなるべく特定して意識化を試みるが、どうしても特定できないときは総体のことだと推定するしかないので、結果的に概念として扱われるのではないかと思われる。 -
情報に特定の実体イメージがないとき、「が」は仮にあるものとしてとらえる。
不確かなものは意識できないが、「が」は既に意識されているという前提なので、特定の確かなものであると推定して扱われるのではないかと思われる。
この説明だけでは抽象的でわかりにくいので例を挙げてみる。
例1.
喫茶店で給仕人がコーヒーと紅茶を運んできたとする。
給仕人がコーヒーを誰のところに置こうか迷っているな、と感じた時、コーヒーを頼んだ人が「私がコーヒー。」と言う場合、その人は給仕人の意識にある「コーヒー」に自分を結びつけ、自分がコーヒーをもらう対象だと知らせている。「コーヒー」という意識が先行してそれに「私」を結びつけるので、「が」が使われる。
同様のケースで「私は紅茶。」と言う場合、まず給仕人に自分を意識させ、その上で自分と紅茶を結びつけ、自分が紅茶をもらう対象だと知らせている。「私」を意識させてから「紅茶」を結びつけるので、「は」を使う。
例2.
知人と散策していたとする。不意に目の前に水の流れが見え、それが川だと認識したとする。
- 「あれは川だ。」と知人に言った場合:
助詞「は」は「あれ」と示された川の視覚イメージを相手に注目させ、それに「川」という一般概念を結びつける働きをする。川の存在に気づいていないかもしれない知人に教えてあげようという目的の言葉。 -
「あれが川だ。」と知人に言った場合:
助詞「が」は「あれ」と示された川の視覚イメージを、相手の意識にある「川」のイメージ(「この辺りに川がある。」という想像)に結び付ける働きをする。この場合、知人は水音や周辺地理の知識などによって川の存在にうすうす気づいているだろう、という前提がある。「川がありそうだ」と思いつつ見つけていない知人に実際の川を見せてあげようという目的の言葉。
上記の例は、目の前にある実体から視覚情報によって得たイメージをそのまま認識に取り込んでいるので、文中で何を示すのかがわかりやすい。視覚によらない認識やイメージの一部を使った認識の例を次にあげる。
例3.認識の提示状況によって解釈が変わる例
「花」と「美しい」を「は」や「が」で結ぶときの解釈をパターンごとに説明する。
パターン1:認識に特定の実体イメージが見当たらない場合
1-1.「花は美しい。」という一行で成る文を読んだ場合の言葉の意味。
解釈:一般的に花というものは美しいものだ。
解説:まず「花は」まで読むと、読者は認識の中に「花」に該当するものを探す。この文に関して何らかの情報があれば、「書かれた時代の人々の共通認識からしてこの場合の花は桜。」のように同定できる場合もあるが、今回の例では何の情報もないので、特定の「花」に同定できない。そこで花に関しては保留し、続きの「美しい」までを読む。一般的に花は美しいとされているので、この情報では「花」を特定できない。よって、読者の脳内にある「花」という一般概念を思い浮かべ、意識の中心に置く。そしてそこに「美しい」という認識を結びつける。一般的な「花」に「美しい」という認識が結びついて上記の解釈となる。
1-2.「花が美しい。」という一行で成る文を読んだ場合の言葉の意味。
解釈:何らかの花のイメージに対し、その美しさに感銘している書き手の気持ちをそのまま表している。
解説:まず「花が」まで読むと、読者は認識の中に「花」に該当するものを探す。何の情報もないので、該当するものがみつからない。とりあえず受け手は適当な「花」のイメージを仮に思い浮かべる。次に「美しい」まで読んで、「美しい」という概念の実体イメージである「美しい」と思う実感を意識し「花」のイメージを結びつける。実際には読者にはそんな実感はないので、経験から美しいものを見たときの気持ちを再現して意識する。結果的に読者は花を見て美しいと感じる気持ちを疑似体験する。よってこの文は花の美しさに対する書き手の主観的な感銘の気持ちをダイレクトに表したものと受け取れる。
以上がパターン1の解釈だが、上記はあくまでも独立した一行文だという前提での解釈で、この文の前後いずれかに他に文がある場合、その中で読者に何らかの認識が明かされるならば、その際は必ずしも上の通りの解釈にはならない。それはパターン3で説明する。
パターン2:認識に特定のイメージが存在する場合
2-1.花飾りのついた帽子を前にして「花は美しい。」と聞かされた場合の言葉の意味。
解釈:この帽子の花飾りは美しい。帽子そのものには感心しないが。
解説:まず「花は」と聞くと、聞き手は認識の中に「花」に該当するものを探す。視覚によって得た花飾りのついた帽子のイメージが認識にあるので、花飾りがこの場合の「花」と同定される。そこで花飾りを意識の中心に置く。次に「美しい」と聞いて、花飾りに「美しい」という(発言者の)認識を結びつける。この過程で「『この帽子の花飾りは美しい。』と発言者は思っている」という解釈が生まれる。一方、「花飾りのついた帽子」という限定的なイメージの中で、わざわざ花の部分だけに「美しい」という認識へのリンクが付加されたことで、除外された帽子本体については発言者が意図的に選択して「美しい」と言うことを避けたことが暗に感じられる。そこで帽子本体に関して否定的なニュアンスが加わり、上記の解釈となる。
2-2.花飾りのついた帽子を前にして「花が美しい。」と聞かされた場合の言葉の意味。
解釈:この帽子では特に花飾りの部分が美しい。
解説:まず「花が」と聞くと、聞き手は認識の中に「花」に該当するものを探す。視覚によって得た花飾りのついた帽子のイメージが認識にあるので、花飾りがこの場合の「花」と同定される。次に「美しい」と聞いて、(発言者の)意識にある「美しい」と思う気持ちに花飾りを結び付ける。発言者はまず総体としての帽子を見て「美しい」という意識を持ち、その意識に「花飾り」のみのイメージを結び付いていることから、「発言者は帽子を見て美しいと感じたが、その理由は花飾り部分にあると判断した。」という状況が浮かび、上記のような解釈となる。
以上がパターン2についての解釈だが、パターン1に比べて具体的な前提となる認識があるため、認識の何が語られ何が無視されたかによって相対的な言外のニュアンスが加わってくる。パターン2-2では発言に至る意識のタイミングがどうであったかでも言外のニュアンスが生まれている。
パターン2は視覚によるイメージであったが、文章による認識設定があるパターンを次に見る。
パターン3:前後の文で特定の認識が明かされる例
3-1.「すべては美しいか醜いかだ。花は美しい。」と言う文章の2文目。
解釈:花というものに関しては、自分にとって美しいか醜いかでいえば、美しいほうに分類する。
解説:1文目で書き手は「すべては美醜の二律背反である」という認識を持っていることが示されている。
2文目の「花」は何の条件もないので一般的な花と解釈するが、書き手の認識にある「すべて」という把握不能な大きな集合から「花」という概念のみに言及しているので、「他はどうか知らないが花に関しては」といったニュアンスが出る。また「美しい」に関しては、この書き手の認識では二律背反である美醜の「美」の方というニュアンスになる。
この例では2文目を「花が美しい。」と置き換えると違和感のある文になる。「花」だけを「美しい」という認識に結び付けてしまうと「花以外のすべてのものは醜い」ということになってしまい、わざわざ二択理論を前に出す意味がなくなり論理的に破たんを感じるため。
3-2.「花は美しい。サボテンを見てナオミは思った。」と言う文章の1文目。
解釈:このサボテンに咲いている花は美しい。花以外の部分は美しくないが。
解説:1文目だけを読むと1-1のパターンのように「一般的に花というものは美しいものだ。」と読めるが、2文目で1文目は新たに登場したナオミなる人物の意識であったことが明らかになる。その際、ナオミなる人物の認識には視覚によりサボテンのイメージが入っている。よって1文目の「花」はナオミが見ているサボテンに咲いた花と推定できる。サボテンのイメージの中で花部分のみ「美しい」としていることから、サボテンそのものは「美しい」ものではないとナオミなる人物が考えていることがわかる。
この文章では書き手は相手の知りようのない認識を後から出してきているので2文目を読んだ後から1文目の意味合いが決まる。読者は一瞬混乱し、警戒して用心深く読むようになる。結果的に読者は文章にのめりこむこととなる。わざと背後の認識を後出しすることで読者をひきつけるテクニックといえる。
このパターンでは、1文目は「花が美しい。」と置き換え可能だ。その場合は、「このサボテンでは花が特に美しい。」といったニュアンスになる。(パターン2-2と同様の解釈により。)
「AはB」の構文で、パターン1-1のように認識の提示がなくてもAを一般概念ではなく特定の実体として解釈する例:
-
Aが固有名詞の場合
「花子は美しい。」のように、固有名詞が使われている場合、実際にはどの花子さんか知らなくても特定の「花子」という名の人物であることは推定できるので、特定の花子さんに対して「美しい」と言っていると解釈する。
-
Aを限定する言葉が付加されている場合
「その花は美しい。」のように「その」と指定されていれば、実際にはどの花だかわからなくても特定の花を示そうとしているのだと認識できる。よってこの場合は一般論ではなく特定の花に対して「美しい」と言っていると解釈する。
-
状況からAが限定される場合
「花は枯れかけている。」のように、「枯れかけている」という全ての花には適用できない特定の状態が示されているような場合、「花」は特定の状況にある実体であると推定できるので、特定の花に対して「枯れかけている」と言っていると解釈する。
助詞「は」と「が」の違いとその働き 2に続く
助詞「は」と「が」の違いとその働き 2 ― 2012年02月23日
助詞「は」と「が」の違いとその働き 1 続き
例4.意識のタイミングによって「は」と「が」で意味合いが変わる例:
「のどは痛い。」「のどが痛い。」の文で説明する。
例5.認識の解釈によって文の解釈が複数ある例:
パターン1-1.
A:「全部チェックした?」
B:「コンピュータは、したと思う。」
という会話のBのセリフの意味。
解釈1:全部はしていないがコンピュータに関するチェックはしたと思う。
解釈2:自分はしていないがコンピュータは自動的に全部チェックしただろう。
解説:Bの「コンピュータは」をどのように認識するかで解釈は変わる。解釈1では、「チェックすべき対象の中のコンピュータに関するもの」として認識している。解釈2では、質問者Aの意図を「全部のチェックがなされたか」と読み、解答者Bがコンピュータを「チェックをした者」として認識していると解釈する。
パターン1-2.
A:「全部チェックした?」
B:「コンピュータが、したと思う。」
という会話のBのセリフの意味。
解釈:コンピュータによって全部のチェックがなされたと思う。
説明:まず質問に対して解答者Bは「したと思う」という答えを意識し、それを表明する際に「コンピュータ」という情報を付加している。Aは質問によって「全部のチェック」が必要だという認識を表している。Bが「した」という肯定的な回答を用意したということは、Aの認識通りに「全部のチェック」をしたということになる。(もし全部でなければ、「全部ではないけれど、した。」というような言い方でAの認識に修正を加えるはずだ。)
「全部のチェックが行われた」ことが明らかならば、付加された「コンピュータ」という情報は、明らかになっていない「チェックした者」であると推定される。よってこの場合は解釈は分かれない。
パターン2-1.
「私は好き?」の意味
解釈1:私のことは好きですか。
解釈2:私はいったい本当にそれを好きなのだろうか。
解説:「好き」という感情が誰のものとみなすかで解釈が変わる。
・他人のものとみなすと解釈1のように、「私」に結び付いた「好き」という実感があるかを話相手に問う意味になり、私のことをあなたは好きかとの問いになる。「私」を意識させてその「私」に対し好意があるかどうかだけを聞いているので、ちょっとでも好意があればYESとなり、「AさんもBさんも好きだけどあなたも好き」といった状況も許容する聞き方。
・自分自身の感情とみなすと解釈2のように、自分自身には「好き」という感情があるのかどうか自問自答していることになる。その際の好きな対象は明かされていないが、好きという感情が自分のものであればそれは何に対するものかは自明であるのでわざわざ明示されなかったと解釈できるので、この場合の「私は」は、「自分自身の気持ちを意識してみると」と解釈できる。つまり、本人にはわかっている何かに対して「好き」かどうかを疑問に思っている、という意味になる。
パターン2-2.
「私が好き?」の意味
解釈1:あなたが好きな相手は私ですか。
解釈2:私のことを好きですって? 驚きだ。
解釈3:この私があんなもの(または人)を好きだというのか?
解説:「私が好き」という状態であるかを相手に問う文であると解釈すると、解釈1になる。相手の「好き」という実感に結び付いているのは「私」であるという状態か?という意味合いになるので、好意を自分に独占的に寄せているかの確認の言葉。
「好き?」という、好意に対する疑念に対して「私」を結びつけている文であると解釈すると、解釈2や解釈3のような意味合いになる。疑問に思うということは心外なのだろうと推察できるので、上記のような解釈のニュアンスになる。
・「好き」という感情が他人のものとみなすと解釈2のように、「まさか私のことを好きなの?」という驚愕を意味する。相手の「好き」という感情に「私」が結び付いているのでこの場合の「私」は「好き」の対象となる。
・「好き」という感情が自分のものとみなすと解釈3のように、自分が「好き」という感情を持っているという仮定に対する驚愕を意味する。自分が持つ「好き」という感情の対象は自明なので、この場合の「私が」は、他人に対して「好きという感情の主は私である」と補足する意味合いと解釈できる。発言主の感情であることは状況で推察できるはずだがわざわざ補足したことで主体が「私」であることが強調されるので、「他でもないこの私が」といったニュアンスが出る。
例6.意識にあるべき対象が不定である場合
「AはB」のAには基本的には「誰」「どこ」「何」などの内容不定な言葉を置くことができない。たとえば、「誰は医者だ。」「どこは北だ。」「何は言いたい。」といった文は日本語として間違った文のように感じられる。
「AはB」のAは意識の中心に置かれるものなので、該当する実体がない可能性がある不定な言葉は基本的にはふさわしくないと考えられる。
ただし、その言葉に実体があることが明らかな場合はその限りでない。
不定な言葉が使える例:
「AがB」のBも意識にあるべき対象なので該当する実体がないものを置くことはできない。なので、「誰」「どこ」「何」などの内容が不定な言葉が置かれる場合は実体のあるものと仮定するため、「誰?と反駁するような強い気持ち」のような実感として解釈される。「それは何。」は「それ」を指すものに何が当てはまるかを聞く言い方だが、「それが何。」は「それ」を指すものが「何であってもどうでもいい。」といった気持ちを表す言い方となる。
例7.相手の認識を想定して語る例
幼児に対して「ボクが太郎くんね。おばさんはママのおともだちよ。」と語りかけるときの解釈:
解釈:「あなたが太郎くんね。私はお母さんの友人です。」と言うのと同義。
解説:発言者は「太郎くん」に会うことを予想していた。まず相手を自分の意識にある「太郎くん」のイメージと結び付けて本人であるか確認をとっている。そののち自分を意識させて相手の母親の友人であるという情報を結びつけることで伝えている。
本来ならば解釈にある通り、「あなたが太郎くんね。私はお母さんの友人です。」というところだが、発言者は幼い相手が発言者の認識を自分自身の認識に置き換えて解釈できるか危惧している。そこで、幼児である「太郎くん」の認識では「自分」=「ボク」、「目の前の発言者」=「知らないおばさん」、「お母さん」=「ママ」、「友人」=「おともだち」であろうと想定し、それをそのまま当てはめて上記の例のように語っている。
例4.意識のタイミングによって「は」と「が」で意味合いが変わる例:
「のどは痛い。」「のどが痛い。」の文で説明する。
- 「のどは痛い。」の解釈
まず「のど」を意識し、そこに「痛い」という状態であるという情報を付加している。
つまり、こののどの痛みはのどを意識したら感じる程度のもので、裏を返せば意識しなかったら感じない程度の痛み。「のど」以外の個所は意識していないので他にも同様に痛いところがあるかどうかはわからないが、「のど」を優先している以上、少なくとも意識しようとしなくても感じる程度の痛みはどこにもないことがわかる。 -
「のどが痛い。」の解釈
まず「痛い」という意識があり、それを公表する際にその個所が「のど」であるという情報を付加している。
つまり、この場合の痛みは、いやおうなく意識にのぼってくる程度の痛みであり、切実なものと解釈できる。
例5.認識の解釈によって文の解釈が複数ある例:
パターン1-1.
A:「全部チェックした?」
B:「コンピュータは、したと思う。」
という会話のBのセリフの意味。
解釈1:全部はしていないがコンピュータに関するチェックはしたと思う。
解釈2:自分はしていないがコンピュータは自動的に全部チェックしただろう。
解説:Bの「コンピュータは」をどのように認識するかで解釈は変わる。解釈1では、「チェックすべき対象の中のコンピュータに関するもの」として認識している。解釈2では、質問者Aの意図を「全部のチェックがなされたか」と読み、解答者Bがコンピュータを「チェックをした者」として認識していると解釈する。
パターン1-2.
A:「全部チェックした?」
B:「コンピュータが、したと思う。」
という会話のBのセリフの意味。
解釈:コンピュータによって全部のチェックがなされたと思う。
説明:まず質問に対して解答者Bは「したと思う」という答えを意識し、それを表明する際に「コンピュータ」という情報を付加している。Aは質問によって「全部のチェック」が必要だという認識を表している。Bが「した」という肯定的な回答を用意したということは、Aの認識通りに「全部のチェック」をしたということになる。(もし全部でなければ、「全部ではないけれど、した。」というような言い方でAの認識に修正を加えるはずだ。)
「全部のチェックが行われた」ことが明らかならば、付加された「コンピュータ」という情報は、明らかになっていない「チェックした者」であると推定される。よってこの場合は解釈は分かれない。
パターン2-1.
「私は好き?」の意味
解釈1:私のことは好きですか。
解釈2:私はいったい本当にそれを好きなのだろうか。
解説:「好き」という感情が誰のものとみなすかで解釈が変わる。
・他人のものとみなすと解釈1のように、「私」に結び付いた「好き」という実感があるかを話相手に問う意味になり、私のことをあなたは好きかとの問いになる。「私」を意識させてその「私」に対し好意があるかどうかだけを聞いているので、ちょっとでも好意があればYESとなり、「AさんもBさんも好きだけどあなたも好き」といった状況も許容する聞き方。
・自分自身の感情とみなすと解釈2のように、自分自身には「好き」という感情があるのかどうか自問自答していることになる。その際の好きな対象は明かされていないが、好きという感情が自分のものであればそれは何に対するものかは自明であるのでわざわざ明示されなかったと解釈できるので、この場合の「私は」は、「自分自身の気持ちを意識してみると」と解釈できる。つまり、本人にはわかっている何かに対して「好き」かどうかを疑問に思っている、という意味になる。
パターン2-2.
「私が好き?」の意味
解釈1:あなたが好きな相手は私ですか。
解釈2:私のことを好きですって? 驚きだ。
解釈3:この私があんなもの(または人)を好きだというのか?
解説:「私が好き」という状態であるかを相手に問う文であると解釈すると、解釈1になる。相手の「好き」という実感に結び付いているのは「私」であるという状態か?という意味合いになるので、好意を自分に独占的に寄せているかの確認の言葉。
「好き?」という、好意に対する疑念に対して「私」を結びつけている文であると解釈すると、解釈2や解釈3のような意味合いになる。疑問に思うということは心外なのだろうと推察できるので、上記のような解釈のニュアンスになる。
・「好き」という感情が他人のものとみなすと解釈2のように、「まさか私のことを好きなの?」という驚愕を意味する。相手の「好き」という感情に「私」が結び付いているのでこの場合の「私」は「好き」の対象となる。
・「好き」という感情が自分のものとみなすと解釈3のように、自分が「好き」という感情を持っているという仮定に対する驚愕を意味する。自分が持つ「好き」という感情の対象は自明なので、この場合の「私が」は、他人に対して「好きという感情の主は私である」と補足する意味合いと解釈できる。発言主の感情であることは状況で推察できるはずだがわざわざ補足したことで主体が「私」であることが強調されるので、「他でもないこの私が」といったニュアンスが出る。
例6.意識にあるべき対象が不定である場合
「AはB」のAには基本的には「誰」「どこ」「何」などの内容不定な言葉を置くことができない。たとえば、「誰は医者だ。」「どこは北だ。」「何は言いたい。」といった文は日本語として間違った文のように感じられる。
「AはB」のAは意識の中心に置かれるものなので、該当する実体がない可能性がある不定な言葉は基本的にはふさわしくないと考えられる。
ただし、その言葉に実体があることが明らかな場合はその限りでない。
不定な言葉が使える例:
-
言葉以外の手段や暗黙の了解でその言葉が特定のものを示している場合
たとえば、お金を示すジェスチャーをして「ナニはあるのか。」と言う場合、「ナニ」がお金を示すことは明らかなので成立する。ジェスチャーがなくても話者間で特定の実体を示すのに使用するという暗黙の了解がある場合も同様に使える。 -
文脈から実体が示唆される場合
たとえば、「何はなくとも愛さえあれば」や「誰は知らねど」などという言い回しは、文脈からそれぞれ「何」は「愛以外のもの」、「誰」は「特定はできないが誰か人物」だとわかるため、それぞれ「何」や「誰」が示すものになんらかの実体はあるので成立する。 -
言葉そのものとして言及される場合
言葉そのものとして言及されるとき、字面を持った言葉という実体として扱えるので使える。
たとえば「『誰』は不特定の人物を示す言葉である。」といった文は違和感なく成立する。 -
不定でも確実に実体がある場合
「誰か」「どこか」「何か」といった言葉は問題なく使える。「か」が付くことで「実体があるのは確かだが特定できないもの」を示す語になるため。「誰かは医者だ。」「どこかは北だ。」「何かは言いたい。」といった文は日本語として成立する。
「AがB」のBも意識にあるべき対象なので該当する実体がないものを置くことはできない。なので、「誰」「どこ」「何」などの内容が不定な言葉が置かれる場合は実体のあるものと仮定するため、「誰?と反駁するような強い気持ち」のような実感として解釈される。「それは何。」は「それ」を指すものに何が当てはまるかを聞く言い方だが、「それが何。」は「それ」を指すものが「何であってもどうでもいい。」といった気持ちを表す言い方となる。
例7.相手の認識を想定して語る例
幼児に対して「ボクが太郎くんね。おばさんはママのおともだちよ。」と語りかけるときの解釈:
解釈:「あなたが太郎くんね。私はお母さんの友人です。」と言うのと同義。
解説:発言者は「太郎くん」に会うことを予想していた。まず相手を自分の意識にある「太郎くん」のイメージと結び付けて本人であるか確認をとっている。そののち自分を意識させて相手の母親の友人であるという情報を結びつけることで伝えている。
本来ならば解釈にある通り、「あなたが太郎くんね。私はお母さんの友人です。」というところだが、発言者は幼い相手が発言者の認識を自分自身の認識に置き換えて解釈できるか危惧している。そこで、幼児である「太郎くん」の認識では「自分」=「ボク」、「目の前の発言者」=「知らないおばさん」、「お母さん」=「ママ」、「友人」=「おともだち」であろうと想定し、それをそのまま当てはめて上記の例のように語っている。