チランジア・パウシフォリア(?)2012年05月13日

パウシフォリア?
 最近入手した品種名不明のチランジア。
 質感はカプトメドゥーサに似ていて、葉はまっすぐ。
 以前手にしたパウシフォリアより細身だが似ているのでパウシフォリアではないかと思う。

チランジア・ベイレイ2012年05月07日

ベイレイ
 最近入手したチランジア・ベイレイ。
 見た目の質感はカプトメドゥーサに似た感じで、触感は硬めでちょっとコンコロールを思い出させる。コンコロールよりはしなりがあるが。表面に縦すじがある。
 以前入手した、シュードベイレイと思われるものと比べると、シュードベイレイらしき個体は葉自体に弾力性があり表面はツルっとした質感だが、ベイレイは葉自体にはあまり弾力性がなく、マットな質感。

チランジア近況2012年05月06日

 今年は早めに4月の終わりころからチランジアを外に出している。
 直射日光を避けて緑葉系のものの大部分に関しては室内で栽培することにした。水やり頻度も種類によって変えようかと考えている。
 前回の記事以降も何度か身内が100円ショップのチランジアを買ってきてくれたのだが、はじめから傷んでいたり以前から調子が悪かったものが枯れたりして、それほど増えていない。
 トリコロール(メラノクラテル)の種は1か月以上様子をみたが、結局発芽しなかった。温度が低かったのか、種に気づくのが遅すぎたのか。残念だ。その代わりというわけではないが、小ぶりの株を入手した。また花を見られるよう、大事に育てようと思う。

助詞「は」と「が」の違いとその働き 32012年03月08日

助詞「は」と「が」の違いとその働き 1
助詞「は」と「が」の違いとその働き 2

 今回は「は」と「が」の例外的に見える用法について、助詞「は」と「が」の違いとその働き 1 でまとめた助詞の働きがどのような効果を表しているかを考えたい。

例8.「の中の」という意味合いを帯びる、助詞「は」の用法

例8-1.場所
例文:「北海道は札幌で雪まつりを見た。」
解釈:北海道にある札幌で雪まつりを見た。
解説:まず「北海道は」で北海道を脳内にイメージする。次に「札幌で」で認識の中から札幌のイメージを探すことになるが、すでに北海道のイメージが脳内に展開されているので、その中の札幌を特定して認識し、北海道のイメージに結び付ける。札幌を認識する際に北海道内にあることが意識されるので、「北海道にある札幌で」という解釈になる。
例8-2.時期
例文:「中学校は一年生の頃からの知り合いだ。」
解釈:(その人は)私が中学校において一年生だった頃からの知り合いだ。
解説:まず「中学校は」で中学校を脳内にイメージする。次に「一年生の頃」で認識の中から「一年生の頃」を特定するが、すでに中学校のイメージがあるのでその時の一年生の頃と特定できる。このセリフは語り手の意識で語られているので、語り手が中学校一年生だった頃と解釈できる。

 この用法では、助詞「は」は「の中の」といった意味合いに置き換えて解釈できるが、他の用法を考えると助詞「は」自体にそういった意味合いがあるとは思えない。この用法では「AはB」の形式でBがAに含まれているという関係性があるので、助詞「は」によってAを意識し次にBを認識から特定してAに結び付けるという働きが行われる際に、Bが「Aの中のB」と認識されることでそのような意味合いが生じるのだと考える。
 この用法では助詞「は」を省いても意味に変化はない。上の例で「北海道札幌で」「中学校一年生の頃」と言い換えてもまったく支障はない。なぜ「は」を入れるのかと考えると、一息に「北海道札幌で」のように語りだされると、聞き手はそういった情報が発信されると予想しておらず、焦って肝心な詳細を聞き漏らしかねない。そこでまず情報の大きな分類のほうを助詞「は」を使って意識させ、その後により詳細な情報を付加することで、相手に段階を追って正しく認識させようという狙いがあるものと推察する。この用法は口語的な印象があるが、文章で書かれているときは読み手はゆっくり時間をとって解釈できるので、こういった言い回しにする必要がないからだと思われる。

例9.語と語を複合語的に結びつける、助詞「が」の用法

 「AがB」の形で単語Aと単語Bを結合してひとつの語のように使用する用法。
 この使い方は慣用的に使われているものが多く、今はあまり使われない印象がある。

パターン1.地名などにみられる、固有名詞化する「が」
例:「桜が丘」「緑が池」など。
 一般的な地形を表す語(丘、池など)の前にその土地固有の情報(桜、緑など)を「が」で結んで特定の場所を表すような用法。
 「桜が丘」の例でいうと、あらかじめ「丘」が意識されていて、それを補足するために「桜」が結び付けられていると考える。以下にこの語の成り立ちを推測してみる。
 まず「丘といえばこの丘」という地元に固有の「丘」が人々の中に意識されている状況があり、単なる「丘」という語でその土地を指していた。そういった「丘」は各土地ごとに存在していただろう。そういう状況で違う土地の人間同士が「丘」について語るとき、自分がイメージしている地元の「丘」を相手にも特定してもらう必要がある。単に「丘」と言っただけでは自分の地元の丘なのか、相手の地元の丘なのかわからない。そこで自身のなじんだ地元の「丘」をイメージしつつ、対外的にその土地を特定できるような固有の情報を結び付けて「桜で有名だから『桜が丘』」のように言い表し、それが広く使われることで固有名詞化したのではないか。

パターン2.特定の意味合いが生じたため慣用的に使われる例
例:「おらが村」「わが世」など。
 「おらが村」は「私の村」と言い換えられるが、「私の村」という語には「私」の視点から見て「私」に結び付いた「村」、つまり「自分の故郷の村」という意味合いしか感じられないのに対し、「おらが村」にはもっと複雑なニュアンスが感じられる。
 「おらが村」は、あらかじめ心に実際の「村」のイメージを意識していて、それを他者に伝えるために関連した情報として自分自身を示す「おら」という語を「が」で結びつけている。つまり「村といえば自分の故郷の村に決まっている」という意識がもともとこの語の使い手の中にあって、その「故郷の村」を対外的に説明するために「自分の故郷がこの村である」という情報を付加している。そこには「村にとって(単なる一村民である)自分が出身者であることは対外的にも意味がある」という認識がうかがえる。
 そのため「おらが村」には単に「故郷の村」という意味合いの他に、構成員ひとりひとりの存在価値が高い小規模で家庭的な共同体であり、各個人が誇りを持って臆面もなく郷土愛をひけらかしてしまうような人情味あふれる村、といったイメージが生じる。このニュアンスを一語で出せる便利な言葉として「おら」という一人称が珍しくなった今も生き残った言い回しだと思われる。
 同様に「わが世」という語にも、「この世にとって自分の存在は有意義なもの」とする認識を感じるので、自分自身に満足している幸せな人物が不遜にも世界が自分中心に回っているような感覚を持っていることをひけらかしているようなニュアンスがある。

パターン3.時代がかった雰囲気をかもしだすため使われる例
例:「誰が為」「それが故」など。
 「誰が為」「それが故」はそれぞれ「誰のため」「そのせい」といった今では一般的な言い回しに換えられるが、助詞「が」を使った言い回しは最近あまり使われないために、時代がかった雰囲気や硬い感じの語感がある。あえて今もこういった言い回しが使われるときは、文章にそういった雰囲気を出す狙いがあるように思う。

助詞「は」と「が」の違いとその働き 22012年02月23日

助詞「は」と「が」の違いとその働き 1 続き

例4.意識のタイミングによって「は」と「が」で意味合いが変わる例:
 「のどは痛い。」「のどが痛い。」の文で説明する。
  1. 「のどは痛い。」の解釈
    まず「のど」を意識し、そこに「痛い」という状態であるという情報を付加している。
    つまり、こののどの痛みはのどを意識したら感じる程度のもので、裏を返せば意識しなかったら感じない程度の痛み。「のど」以外の個所は意識していないので他にも同様に痛いところがあるかどうかはわからないが、「のど」を優先している以上、少なくとも意識しようとしなくても感じる程度の痛みはどこにもないことがわかる。
  2. 「のどが痛い。」の解釈
    まず「痛い」という意識があり、それを公表する際にその個所が「のど」であるという情報を付加している。
    つまり、この場合の痛みは、いやおうなく意識にのぼってくる程度の痛みであり、切実なものと解釈できる。

例5.認識の解釈によって文の解釈が複数ある例:

パターン1-1.
 A:「全部チェックした?」
 B:「コンピュータは、したと思う。」
 という会話のBのセリフの意味。
 解釈1:全部はしていないがコンピュータに関するチェックはしたと思う。
 解釈2:自分はしていないがコンピュータは自動的に全部チェックしただろう。
 解説:Bの「コンピュータは」をどのように認識するかで解釈は変わる。解釈1では、「チェックすべき対象の中のコンピュータに関するもの」として認識している。解釈2では、質問者Aの意図を「全部のチェックがなされたか」と読み、解答者Bがコンピュータを「チェックをした者」として認識していると解釈する。

パターン1-2.
 A:「全部チェックした?」
 B:「コンピュータが、したと思う。」
 という会話のBのセリフの意味。
 解釈:コンピュータによって全部のチェックがなされたと思う。
 説明:まず質問に対して解答者Bは「したと思う」という答えを意識し、それを表明する際に「コンピュータ」という情報を付加している。Aは質問によって「全部のチェック」が必要だという認識を表している。Bが「した」という肯定的な回答を用意したということは、Aの認識通りに「全部のチェック」をしたということになる。(もし全部でなければ、「全部ではないけれど、した。」というような言い方でAの認識に修正を加えるはずだ。)
「全部のチェックが行われた」ことが明らかならば、付加された「コンピュータ」という情報は、明らかになっていない「チェックした者」であると推定される。よってこの場合は解釈は分かれない。

パターン2-1.
「私は好き?」の意味
 解釈1:私のことは好きですか。
 解釈2:私はいったい本当にそれを好きなのだろうか。
 解説:「好き」という感情が誰のものとみなすかで解釈が変わる。
 ・他人のものとみなすと解釈1のように、「私」に結び付いた「好き」という実感があるかを話相手に問う意味になり、私のことをあなたは好きかとの問いになる。「私」を意識させてその「私」に対し好意があるかどうかだけを聞いているので、ちょっとでも好意があればYESとなり、「AさんもBさんも好きだけどあなたも好き」といった状況も許容する聞き方。
 ・自分自身の感情とみなすと解釈2のように、自分自身には「好き」という感情があるのかどうか自問自答していることになる。その際の好きな対象は明かされていないが、好きという感情が自分のものであればそれは何に対するものかは自明であるのでわざわざ明示されなかったと解釈できるので、この場合の「私は」は、「自分自身の気持ちを意識してみると」と解釈できる。つまり、本人にはわかっている何かに対して「好き」かどうかを疑問に思っている、という意味になる。

パターン2-2.
「私が好き?」の意味
 解釈1:あなたが好きな相手は私ですか。
 解釈2:私のことを好きですって? 驚きだ。
 解釈3:この私があんなもの(または人)を好きだというのか?
 解説:「私が好き」という状態であるかを相手に問う文であると解釈すると、解釈1になる。相手の「好き」という実感に結び付いているのは「私」であるという状態か?という意味合いになるので、好意を自分に独占的に寄せているかの確認の言葉。
 「好き?」という、好意に対する疑念に対して「私」を結びつけている文であると解釈すると、解釈2や解釈3のような意味合いになる。疑問に思うということは心外なのだろうと推察できるので、上記のような解釈のニュアンスになる。
 ・「好き」という感情が他人のものとみなすと解釈2のように、「まさか私のことを好きなの?」という驚愕を意味する。相手の「好き」という感情に「私」が結び付いているのでこの場合の「私」は「好き」の対象となる。
 ・「好き」という感情が自分のものとみなすと解釈3のように、自分が「好き」という感情を持っているという仮定に対する驚愕を意味する。自分が持つ「好き」という感情の対象は自明なので、この場合の「私が」は、他人に対して「好きという感情の主は私である」と補足する意味合いと解釈できる。発言主の感情であることは状況で推察できるはずだがわざわざ補足したことで主体が「私」であることが強調されるので、「他でもないこの私が」といったニュアンスが出る。

例6.意識にあるべき対象が不定である場合

 「AはB」のAには基本的には「誰」「どこ」「何」などの内容不定な言葉を置くことができない。たとえば、「誰は医者だ。」「どこは北だ。」「何は言いたい。」といった文は日本語として間違った文のように感じられる。
 「AはB」のAは意識の中心に置かれるものなので、該当する実体がない可能性がある不定な言葉は基本的にはふさわしくないと考えられる。
 ただし、その言葉に実体があることが明らかな場合はその限りでない。

不定な言葉が使える例:
  • 言葉以外の手段や暗黙の了解でその言葉が特定のものを示している場合
    たとえば、お金を示すジェスチャーをして「ナニはあるのか。」と言う場合、「ナニ」がお金を示すことは明らかなので成立する。ジェスチャーがなくても話者間で特定の実体を示すのに使用するという暗黙の了解がある場合も同様に使える。
  • 文脈から実体が示唆される場合
    たとえば、「何はなくとも愛さえあれば」や「誰は知らねど」などという言い回しは、文脈からそれぞれ「何」は「愛以外のもの」、「誰」は「特定はできないが誰か人物」だとわかるため、それぞれ「何」や「誰」が示すものになんらかの実体はあるので成立する。
  • 言葉そのものとして言及される場合
    言葉そのものとして言及されるとき、字面を持った言葉という実体として扱えるので使える。
    たとえば「『誰』は不特定の人物を示す言葉である。」といった文は違和感なく成立する。
  • 不定でも確実に実体がある場合
    「誰か」「どこか」「何か」といった言葉は問題なく使える。「か」が付くことで「実体があるのは確かだが特定できないもの」を示す語になるため。「誰かは医者だ。」「どこかは北だ。」「何かは言いたい。」といった文は日本語として成立する。

 「AがB」のBも意識にあるべき対象なので該当する実体がないものを置くことはできない。なので、「誰」「どこ」「何」などの内容が不定な言葉が置かれる場合は実体のあるものと仮定するため、「誰?と反駁するような強い気持ち」のような実感として解釈される。「それは何。」は「それ」を指すものに何が当てはまるかを聞く言い方だが、「それが何。」は「それ」を指すものが「何であってもどうでもいい。」といった気持ちを表す言い方となる。

例7.相手の認識を想定して語る例

 幼児に対して「ボクが太郎くんね。おばさんはママのおともだちよ。」と語りかけるときの解釈:
 解釈:「あなたが太郎くんね。私はお母さんの友人です。」と言うのと同義。
 解説:発言者は「太郎くん」に会うことを予想していた。まず相手を自分の意識にある「太郎くん」のイメージと結び付けて本人であるか確認をとっている。そののち自分を意識させて相手の母親の友人であるという情報を結びつけることで伝えている。
 本来ならば解釈にある通り、「あなたが太郎くんね。私はお母さんの友人です。」というところだが、発言者は幼い相手が発言者の認識を自分自身の認識に置き換えて解釈できるか危惧している。そこで、幼児である「太郎くん」の認識では「自分」=「ボク」、「目の前の発言者」=「知らないおばさん」、「お母さん」=「ママ」、「友人」=「おともだち」であろうと想定し、それをそのまま当てはめて上記の例のように語っている。