助詞「は」と「が」の違いとその働き 32012年03月08日

助詞「は」と「が」の違いとその働き 1
助詞「は」と「が」の違いとその働き 2

 今回は「は」と「が」の例外的に見える用法について、助詞「は」と「が」の違いとその働き 1 でまとめた助詞の働きがどのような効果を表しているかを考えたい。

例8.「の中の」という意味合いを帯びる、助詞「は」の用法

例8-1.場所
例文:「北海道は札幌で雪まつりを見た。」
解釈:北海道にある札幌で雪まつりを見た。
解説:まず「北海道は」で北海道を脳内にイメージする。次に「札幌で」で認識の中から札幌のイメージを探すことになるが、すでに北海道のイメージが脳内に展開されているので、その中の札幌を特定して認識し、北海道のイメージに結び付ける。札幌を認識する際に北海道内にあることが意識されるので、「北海道にある札幌で」という解釈になる。
例8-2.時期
例文:「中学校は一年生の頃からの知り合いだ。」
解釈:(その人は)私が中学校において一年生だった頃からの知り合いだ。
解説:まず「中学校は」で中学校を脳内にイメージする。次に「一年生の頃」で認識の中から「一年生の頃」を特定するが、すでに中学校のイメージがあるのでその時の一年生の頃と特定できる。このセリフは語り手の意識で語られているので、語り手が中学校一年生だった頃と解釈できる。

 この用法では、助詞「は」は「の中の」といった意味合いに置き換えて解釈できるが、他の用法を考えると助詞「は」自体にそういった意味合いがあるとは思えない。この用法では「AはB」の形式でBがAに含まれているという関係性があるので、助詞「は」によってAを意識し次にBを認識から特定してAに結び付けるという働きが行われる際に、Bが「Aの中のB」と認識されることでそのような意味合いが生じるのだと考える。
 この用法では助詞「は」を省いても意味に変化はない。上の例で「北海道札幌で」「中学校一年生の頃」と言い換えてもまったく支障はない。なぜ「は」を入れるのかと考えると、一息に「北海道札幌で」のように語りだされると、聞き手はそういった情報が発信されると予想しておらず、焦って肝心な詳細を聞き漏らしかねない。そこでまず情報の大きな分類のほうを助詞「は」を使って意識させ、その後により詳細な情報を付加することで、相手に段階を追って正しく認識させようという狙いがあるものと推察する。この用法は口語的な印象があるが、文章で書かれているときは読み手はゆっくり時間をとって解釈できるので、こういった言い回しにする必要がないからだと思われる。

例9.語と語を複合語的に結びつける、助詞「が」の用法

 「AがB」の形で単語Aと単語Bを結合してひとつの語のように使用する用法。
 この使い方は慣用的に使われているものが多く、今はあまり使われない印象がある。

パターン1.地名などにみられる、固有名詞化する「が」
例:「桜が丘」「緑が池」など。
 一般的な地形を表す語(丘、池など)の前にその土地固有の情報(桜、緑など)を「が」で結んで特定の場所を表すような用法。
 「桜が丘」の例でいうと、あらかじめ「丘」が意識されていて、それを補足するために「桜」が結び付けられていると考える。以下にこの語の成り立ちを推測してみる。
 まず「丘といえばこの丘」という地元に固有の「丘」が人々の中に意識されている状況があり、単なる「丘」という語でその土地を指していた。そういった「丘」は各土地ごとに存在していただろう。そういう状況で違う土地の人間同士が「丘」について語るとき、自分がイメージしている地元の「丘」を相手にも特定してもらう必要がある。単に「丘」と言っただけでは自分の地元の丘なのか、相手の地元の丘なのかわからない。そこで自身のなじんだ地元の「丘」をイメージしつつ、対外的にその土地を特定できるような固有の情報を結び付けて「桜で有名だから『桜が丘』」のように言い表し、それが広く使われることで固有名詞化したのではないか。

パターン2.特定の意味合いが生じたため慣用的に使われる例
例:「おらが村」「わが世」など。
 「おらが村」は「私の村」と言い換えられるが、「私の村」という語には「私」の視点から見て「私」に結び付いた「村」、つまり「自分の故郷の村」という意味合いしか感じられないのに対し、「おらが村」にはもっと複雑なニュアンスが感じられる。
 「おらが村」は、あらかじめ心に実際の「村」のイメージを意識していて、それを他者に伝えるために関連した情報として自分自身を示す「おら」という語を「が」で結びつけている。つまり「村といえば自分の故郷の村に決まっている」という意識がもともとこの語の使い手の中にあって、その「故郷の村」を対外的に説明するために「自分の故郷がこの村である」という情報を付加している。そこには「村にとって(単なる一村民である)自分が出身者であることは対外的にも意味がある」という認識がうかがえる。
 そのため「おらが村」には単に「故郷の村」という意味合いの他に、構成員ひとりひとりの存在価値が高い小規模で家庭的な共同体であり、各個人が誇りを持って臆面もなく郷土愛をひけらかしてしまうような人情味あふれる村、といったイメージが生じる。このニュアンスを一語で出せる便利な言葉として「おら」という一人称が珍しくなった今も生き残った言い回しだと思われる。
 同様に「わが世」という語にも、「この世にとって自分の存在は有意義なもの」とする認識を感じるので、自分自身に満足している幸せな人物が不遜にも世界が自分中心に回っているような感覚を持っていることをひけらかしているようなニュアンスがある。

パターン3.時代がかった雰囲気をかもしだすため使われる例
例:「誰が為」「それが故」など。
 「誰が為」「それが故」はそれぞれ「誰のため」「そのせい」といった今では一般的な言い回しに換えられるが、助詞「が」を使った言い回しは最近あまり使われないために、時代がかった雰囲気や硬い感じの語感がある。あえて今もこういった言い回しが使われるときは、文章にそういった雰囲気を出す狙いがあるように思う。