「やる」と「あげる」2011年08月31日

 「花に水をあげる」「犬にエサをあげる」「赤ちゃんにミルクをあげる」
 といった敬語の用例が「間違っている」と問題視され、時に日本語の乱れとして話題になる。
 花や犬や赤ん坊は敬語を使うべき対象ではなく、「~をやる」が正しいという。
 何年か前に、専門家によって
 「本来は『やる』が正しいが、敬語を丁寧な表現として使う用例が増え、そういう新しい表現として『あげる』も許容される。」
 といった感じの結論で落ち着いたようだ。

 事を荒立てる気持ちはないが、個人的にはこの結論には不満を感じている。新しい概念を導入しなくても、先にあげた「~をあげる」という用例は、従来通りの敬語システムを踏襲して使われていると思う。従来「やる」であった状況で「あげる」とする敬語使用例が増加しているのは、動植物などに対する思想や観念に変化があったため、敬語を使う対象か否かの判断にも変化が出ている結果だ。

 かつては「人間がすべての生物の中で最も優れており、頂点に君臨している。」という思想が支配的だった。動植物は人間に近いものというよりは、財物のような扱いをされていた(今でも法的にはそういう扱いだ)。人間より劣った存在・あるいは物に準ずるものとしてとらえられていたから、動植物には敬語を使わないのが自然だった。
 子供に関しても、今と違って親の所有物のようにとらえられていたし、半人前として人間未満に思われていた。動植物と違って子供の場合は人間として身分などによって敬語の対象になりうるが、特別な家庭でない限りは自分の子供に敬語を使わないのが普通で、特に第三者に自分の子供を語るときには、相手に敬意を示すために(子供に限らず)身内には敬語を使わず謙遜するのが常識だった。
 以上のような観念で考えると、生き物や自分の子供には「やる」と表現するのが当たり前だ。

 しかし、最近の動植物や子供に対する意識は変化している。
 子供のころから「ミミズもオケラもおともだち」という理念で育った世代が主流になってきているし、科学の発展により「遺伝子レベルでは人間もチンパンジーも案外大差ない」とか「草花も傷つけられると痛みの正体である電流が流れる」、「実は昆虫はかなり進化した生き物」などといった豆知識が耳に入る。人間以外はみな下等だという常識は崩れた。
 「動植物は人間と同じ『生き物』という大きなくくりにある仲間だが、身内ではない。」
 というスタンスが今の主流だと思う。
 この考えの下での動植物の扱いは、見知らぬ人に対する
 「同じ人間という大きなくくりにある仲間だが、身内ではない。」
 というスタンスに近くなる。身内でもなく見下す理由もない見知らぬ人には敬語を使うものだ。同様の考えで、身内でもなく見下す対象でなくなった動植物も、敬語を使うのが自然だ。
 そして子供に対する表現。こちらにも意識変化があった。今では小さな子供もひとりの人間として尊重しようという社会的な合意があり、少子化により子供は未来を担う社会の宝であるという考え方も広まった。一方で近所同士の関わり合いは希薄になって身内のような親しさがなくなった。今は近所の子供にも「~をあげる。」と敬語で話す人も多いのではないか。
 そうは言っても自分の子供はあくまでも身内なのだから、普通に考えると敬語を使うのは解せない。だがこれは、人間関係の変化で説明がつくと思う。
 今は一人暮らしや共稼ぎの核家族が主流で、家族よりも職場や学校の友人のほうが一緒にいる時間が長くて親密だという人も多いだろう。乳幼児と接点のないまま親になる人も多く、自分の子供を天使や宇宙人など距離感のある対象に例える表現をさまざまなメディアで見かける。つまり、言葉の通じない赤ん坊は異界から来た客で、話のわかる知り合いはより身内的存在であるという意識を持つ人が増えているのではないか。そういうスタンスでみると、知り合いに自分の子供について「そろそろミルクをあげなくては。」などと敬語で語るのも、従来からの敬語の概念で説明できる。

 「やる」と「あげる」のどちらが正しいのかは、国語の問題というよりは、思想の問題だ。

 「やる」派からみると、「あげる」派はみすみす人間の万物の霊長という座を明け渡して、ヒューマニズムの時代からお犬様の時代に逆行するような、愚かな存在に感じるかもしれない。
 「あげる」派からみると、「やる」派は客観的で科学的なものの見方やグローバルな視点での発想ができない頭が固い人たちで、情を感じる対象の小さい野蛮な存在に感じるかもしれない。

 この論争がどちらか一方のみを正解とせずに決着したのはよかった。
 一方を封印することは、思想統制に他ならない。
 とはいえ最近の科学の知見やエコロジーに関心が高まって生態系を構成する諸々を尊重する気運からいえば、動植物に対して「あげる」派が増えるのが当然だと思うので、イレギュラーな用法として片づけられたのは残念だ。
 もっとも「やる」派が今後消えゆく運命だとも思わない。
 思想は時代によって変化していく。
 そのうち他人よりも自分の世話する動植物に身内感を持つ人が増えて、
 「昨日わが家の愚花に水をやりまして。」
 なんて言い方が普通になるやもしれない。