「よろしかったでしょうか」という言い回しを考える ― 2011年09月24日
買い物で店員がレジを打つ時など注文を確認するときに、
「~でよろしかったでしょうか。」
と客に聞く例が増えている。
かつては「~でよろしいでしょうか」の言い方が普通だった。
この「よろしかったでしょうか」の表現が一部の人々に不評だ。
過去形であるがゆえに「よろしいでしょうか。」に比べて客の今の気持ちを無視しているような印象があるからだろう。顧客の満足度をひたすら上げる言い方を目標とするなら、この変化は後退しているように感じられる。
また、過去のどの時点を指しているのかがピンと来ず、違和感を持つ人が多いのだと思う。
これは私の仮説にすぎないが、「よろしかったでしょうか」は効率化のために契約時点を意識して使われるようになったのではないか。
精算時に「~でよろしいでしょうか。」と聞くのは客へのご機嫌うかがいのような聞き方でいて、実際の意味は確認の依頼だ。
店員がまさにレジを打たんとしているときに、この期に及んで購入意思を確認する理由はない。レジに並んだ商品が客の希望通り揃っているかを確認したいのだ。言い換えれば、客が購入意思を見せた時点で成立した売買契約を実行するにあたって客の意図した契約内容通りであるかの確認を依頼しているのだ。
「~で合っていますか。」ではなく客の希望を問うかのように思わせる言い方をしているのは、客に確認作業をさせつつ、客には自分が丁重に扱われていると感じさせる伝統的なテクニックだ。
従来過去形でなかったのは、「よろしいかどうか」の内容として現在レジ台に並べられた商品にフォーカスをあてているのと、商品をレジ台に載せるという行為で購入意思を見せた時点と支払いの時点との間のわずかな時間に立派なお客様が心変わりなどするわけがないという前提があるため、わざわざ過去形にする必要がなかった。
しかし、「よろしいでしょうか。」という言葉の響きそのままに自分の意向を聞かれたのだと思ってしまう客もいるかもしれない。あらためて問われれば、散財を後悔したり迷いのあった商品を別のに替えたくなってしまうものだ。わきまえた客なら自分が心変わりしてしまっても、店側にミスがなければ「これでよい」と答えるものだ。今さら変更することは、店員に無駄な手間をかけさせるし、レジも混乱して他の客にも迷惑をかけてしまう。なによりほんの数秒前に見せた自分の意思を覆すのはカッコ悪い。
従来の言い方である「よろしいでしょうか。」は、客に無限の裁量があるかのようなファンタジーを与えるが、実質的には「よろしかったでしょうか。」と意味するところは同じだ。実際には「良識」という自己規制によって、客は再確認以上の裁量は事実上得られない。
それでも「よろしいでしょうか。」の語感に甘えて意思を変えて商品のキャンセルや変更を求める客がいた場合、店は断れないだろう。応じなければサービスの悪い店という評判が立ってしまう。
そこで登場したのが「よろしかったでしょうか。」という言い回しではなかろうか。
過去形にすることで、「よろしいかどうか」の内容として契約時(購入意思が示されたとき)に客が思い描いていた契約内容がフォーカスされる。確認を求めるという意味は同じだが、「よろしいでしょうか。」とは違って、たとえ客の気が変わっていたとしても、あくまでも契約時のことを聞かれているので変更を言い出す余地はない。
そのため、現時点で契約はすでに効力を持っており、もう変更できる段階をすぎているのだということを暗に示せる。より混乱なく目的(客に契約内容を確認させること)が達成できる言い方だ。
「よろしかったでしょうか。」が勢力を広げているのなら、そちらの言い方を選ぶほうが利があると思われる理由があるはずだ。
「よろしいでしょうか。」を従来の常識的なセンスで解釈せず、言葉通りに受け取って意思をころころ変えて店を混乱させるお客さんが増えたのかもしれない。あるいはそんなお客さんは前からいたが、それに応えてあげる余力が店から失われたのかもしれない。または単に客のイレギュラーな反応を極力避けて、極限まで効率を上げたいのかもしれない。
私が考え付くのはそんなところだ。
「よろしかったでしょうか。」にはさまざまなバリエーションがある。
たとえば、「お飲み物は(なくても)よろしかったでしょうか。」とか、「紙袋(の梱包)でよろしかったでしょうか。」とか。
一見するとこれらの表現はおかしく感じる。飲み物や紙袋は客が注文したわけではなく、イメージすらしていなかっただろうに、「よろしかった」かと聞かれているからだ。
これは「よろしかった」かが過去の客の気持ちではなく契約に関して問われているのだと解釈すると説明がつく。
この店では購入品に飲み物が含まれていて商品を紙袋に入れるのが標準的な契約なのだろう。
「頼まれなかったので飲み物の含まれない特殊な契約と解釈した。特に指定されなかったので暗黙の了解で通常通り紙袋に入れる契約だと解釈した。そういう内容の契約として処理したがよかったか。」
といったところか。
これらの用法は従来のように「よろしいでしょうか。」と言っても不都合はなさそうだ。これから用意するものに対しての質問なので、客が変更を求めても対応できるはずだ。
わざわざ「よろしかったでしょうか。」という用法を使うとすれば、できれば言うがままに応じてもらったほうが都合がいいという事情があるのか、あるいは常に同じ言い回しに統一しておけば効率よく対応できるメリットがあるのだろう。
「よろしいでしょうか。」はゆかしい表現だ。客の要望をすべて受け入れてくれそうな恭順を感じる。しかし、それは客のほうも相手を思いやって自分を律して応じるからこそ商売として成り立つ。だからこそゆかしい。
昔の商圏は限られていた。地元の客が地元の店を利用するものだったから、店は長い目で見て一時の損も代々の顧客獲得を優先させて受け入れた。今は通信や交通の便がよくなり、全国どこでも安さを求めて顧客はあっさり移動してしまう。店は効率化を求められる。
「よろしかったでしょうか。」が効率化の産物なら、ゆかしさが損なわれたとしても、顧客にもちゃんと見返りはあったのではないか。
ところで、「よろしかったでしょうか。」は東北の方言から広まったのではないかという説があるようだ。そうだとすると、ここで論じたことは的外れだったかもしれない。
しかし自然にその言い回しの勢力が強まったのなら、その言い回しのほうが優れていると考える人が増えたということは間違いがないだろう。
「よろしかったでしょうか。」を悪しきマニュアル言葉として排除し「よろしいでしょうか。」という言い回しに戻すよう業界に要請する動きもあるようだが、それは本末転倒ではないかと思う。
社会全体で「よろしいでしょうか。」を標準として個々の事情を考察せず押し付けるのなら、それこそ言葉のマニュアル化に他ならず、ちっともゆかしくない。
信用で高級品を定価売りするような店ならば、顧客はサービスも込みでそういう店を利用するのだろうから、安売り店の真似をせず今までどおり下にも置かぬような扱いをしてくれと客が求めるのはわかる。
でも、安さを売りに全国津々浦々から客が集まって行列をなすような店なら、愛想のない事務的な応対でもいいからサクサクと列をさばいてくれるほうが顧客のためになるだろう。
最適な言い回しは状況次第ではないか。
私自身、「よろしかったでしょうか」という言い回しを初めて聞いた時に違和感を持ったひとりだが、状況に関係なく文法誤りでもない特定の言い回しを取り締まることが正当化されるのは、それ以上に違和感がある。
「~でよろしかったでしょうか。」
と客に聞く例が増えている。
かつては「~でよろしいでしょうか」の言い方が普通だった。
この「よろしかったでしょうか」の表現が一部の人々に不評だ。
過去形であるがゆえに「よろしいでしょうか。」に比べて客の今の気持ちを無視しているような印象があるからだろう。顧客の満足度をひたすら上げる言い方を目標とするなら、この変化は後退しているように感じられる。
また、過去のどの時点を指しているのかがピンと来ず、違和感を持つ人が多いのだと思う。
これは私の仮説にすぎないが、「よろしかったでしょうか」は効率化のために契約時点を意識して使われるようになったのではないか。
精算時に「~でよろしいでしょうか。」と聞くのは客へのご機嫌うかがいのような聞き方でいて、実際の意味は確認の依頼だ。
店員がまさにレジを打たんとしているときに、この期に及んで購入意思を確認する理由はない。レジに並んだ商品が客の希望通り揃っているかを確認したいのだ。言い換えれば、客が購入意思を見せた時点で成立した売買契約を実行するにあたって客の意図した契約内容通りであるかの確認を依頼しているのだ。
「~で合っていますか。」ではなく客の希望を問うかのように思わせる言い方をしているのは、客に確認作業をさせつつ、客には自分が丁重に扱われていると感じさせる伝統的なテクニックだ。
従来過去形でなかったのは、「よろしいかどうか」の内容として現在レジ台に並べられた商品にフォーカスをあてているのと、商品をレジ台に載せるという行為で購入意思を見せた時点と支払いの時点との間のわずかな時間に立派なお客様が心変わりなどするわけがないという前提があるため、わざわざ過去形にする必要がなかった。
しかし、「よろしいでしょうか。」という言葉の響きそのままに自分の意向を聞かれたのだと思ってしまう客もいるかもしれない。あらためて問われれば、散財を後悔したり迷いのあった商品を別のに替えたくなってしまうものだ。わきまえた客なら自分が心変わりしてしまっても、店側にミスがなければ「これでよい」と答えるものだ。今さら変更することは、店員に無駄な手間をかけさせるし、レジも混乱して他の客にも迷惑をかけてしまう。なによりほんの数秒前に見せた自分の意思を覆すのはカッコ悪い。
従来の言い方である「よろしいでしょうか。」は、客に無限の裁量があるかのようなファンタジーを与えるが、実質的には「よろしかったでしょうか。」と意味するところは同じだ。実際には「良識」という自己規制によって、客は再確認以上の裁量は事実上得られない。
それでも「よろしいでしょうか。」の語感に甘えて意思を変えて商品のキャンセルや変更を求める客がいた場合、店は断れないだろう。応じなければサービスの悪い店という評判が立ってしまう。
そこで登場したのが「よろしかったでしょうか。」という言い回しではなかろうか。
過去形にすることで、「よろしいかどうか」の内容として契約時(購入意思が示されたとき)に客が思い描いていた契約内容がフォーカスされる。確認を求めるという意味は同じだが、「よろしいでしょうか。」とは違って、たとえ客の気が変わっていたとしても、あくまでも契約時のことを聞かれているので変更を言い出す余地はない。
そのため、現時点で契約はすでに効力を持っており、もう変更できる段階をすぎているのだということを暗に示せる。より混乱なく目的(客に契約内容を確認させること)が達成できる言い方だ。
「よろしかったでしょうか。」が勢力を広げているのなら、そちらの言い方を選ぶほうが利があると思われる理由があるはずだ。
「よろしいでしょうか。」を従来の常識的なセンスで解釈せず、言葉通りに受け取って意思をころころ変えて店を混乱させるお客さんが増えたのかもしれない。あるいはそんなお客さんは前からいたが、それに応えてあげる余力が店から失われたのかもしれない。または単に客のイレギュラーな反応を極力避けて、極限まで効率を上げたいのかもしれない。
私が考え付くのはそんなところだ。
「よろしかったでしょうか。」にはさまざまなバリエーションがある。
たとえば、「お飲み物は(なくても)よろしかったでしょうか。」とか、「紙袋(の梱包)でよろしかったでしょうか。」とか。
一見するとこれらの表現はおかしく感じる。飲み物や紙袋は客が注文したわけではなく、イメージすらしていなかっただろうに、「よろしかった」かと聞かれているからだ。
これは「よろしかった」かが過去の客の気持ちではなく契約に関して問われているのだと解釈すると説明がつく。
この店では購入品に飲み物が含まれていて商品を紙袋に入れるのが標準的な契約なのだろう。
「頼まれなかったので飲み物の含まれない特殊な契約と解釈した。特に指定されなかったので暗黙の了解で通常通り紙袋に入れる契約だと解釈した。そういう内容の契約として処理したがよかったか。」
といったところか。
これらの用法は従来のように「よろしいでしょうか。」と言っても不都合はなさそうだ。これから用意するものに対しての質問なので、客が変更を求めても対応できるはずだ。
わざわざ「よろしかったでしょうか。」という用法を使うとすれば、できれば言うがままに応じてもらったほうが都合がいいという事情があるのか、あるいは常に同じ言い回しに統一しておけば効率よく対応できるメリットがあるのだろう。
「よろしいでしょうか。」はゆかしい表現だ。客の要望をすべて受け入れてくれそうな恭順を感じる。しかし、それは客のほうも相手を思いやって自分を律して応じるからこそ商売として成り立つ。だからこそゆかしい。
昔の商圏は限られていた。地元の客が地元の店を利用するものだったから、店は長い目で見て一時の損も代々の顧客獲得を優先させて受け入れた。今は通信や交通の便がよくなり、全国どこでも安さを求めて顧客はあっさり移動してしまう。店は効率化を求められる。
「よろしかったでしょうか。」が効率化の産物なら、ゆかしさが損なわれたとしても、顧客にもちゃんと見返りはあったのではないか。
ところで、「よろしかったでしょうか。」は東北の方言から広まったのではないかという説があるようだ。そうだとすると、ここで論じたことは的外れだったかもしれない。
しかし自然にその言い回しの勢力が強まったのなら、その言い回しのほうが優れていると考える人が増えたということは間違いがないだろう。
「よろしかったでしょうか。」を悪しきマニュアル言葉として排除し「よろしいでしょうか。」という言い回しに戻すよう業界に要請する動きもあるようだが、それは本末転倒ではないかと思う。
社会全体で「よろしいでしょうか。」を標準として個々の事情を考察せず押し付けるのなら、それこそ言葉のマニュアル化に他ならず、ちっともゆかしくない。
信用で高級品を定価売りするような店ならば、顧客はサービスも込みでそういう店を利用するのだろうから、安売り店の真似をせず今までどおり下にも置かぬような扱いをしてくれと客が求めるのはわかる。
でも、安さを売りに全国津々浦々から客が集まって行列をなすような店なら、愛想のない事務的な応対でもいいからサクサクと列をさばいてくれるほうが顧客のためになるだろう。
最適な言い回しは状況次第ではないか。
私自身、「よろしかったでしょうか」という言い回しを初めて聞いた時に違和感を持ったひとりだが、状況に関係なく文法誤りでもない特定の言い回しを取り締まることが正当化されるのは、それ以上に違和感がある。
チランジア・ブルボーサ開花時の画像 ― 2011年09月25日

5月中旬に花穂が伸びないままブルボーサが開花。写真はその時のもの。
気候が合わなかったのか、そのあとも全部は開花しなかった。
夏に立て続けにチランジアが枯れた時に、このブルボーサも枯れてしまった。枯れた外葉を外すと子株ができていたが、それも枯れていた。順調に育って2代目までいったのでショックだ。
ここ2年ほど9月の日差しでチランジアを傷めてしまうことが多かったが、夏の失敗もあって、今年はすぐに室内に取り込んだので9月のダメージはこなかった。9月に入ってから日の入る角度が変わって日射時間が長くなったので、直射にあてていた昨年までは傷みやすかったのかと思う。
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気候が合わなかったのか、そのあとも全部は開花しなかった。
夏に立て続けにチランジアが枯れた時に、このブルボーサも枯れてしまった。枯れた外葉を外すと子株ができていたが、それも枯れていた。順調に育って2代目までいったのでショックだ。
ここ2年ほど9月の日差しでチランジアを傷めてしまうことが多かったが、夏の失敗もあって、今年はすぐに室内に取り込んだので9月のダメージはこなかった。9月に入ってから日の入る角度が変わって日射時間が長くなったので、直射にあてていた昨年までは傷みやすかったのかと思う。
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