助詞「は」と「が」の違いとその働き 32012年03月08日

助詞「は」と「が」の違いとその働き 1
助詞「は」と「が」の違いとその働き 2

 今回は「は」と「が」の例外的に見える用法について、助詞「は」と「が」の違いとその働き 1 でまとめた助詞の働きがどのような効果を表しているかを考えたい。

例8.「の中の」という意味合いを帯びる、助詞「は」の用法

例8-1.場所
例文:「北海道は札幌で雪まつりを見た。」
解釈:北海道にある札幌で雪まつりを見た。
解説:まず「北海道は」で北海道を脳内にイメージする。次に「札幌で」で認識の中から札幌のイメージを探すことになるが、すでに北海道のイメージが脳内に展開されているので、その中の札幌を特定して認識し、北海道のイメージに結び付ける。札幌を認識する際に北海道内にあることが意識されるので、「北海道にある札幌で」という解釈になる。
例8-2.時期
例文:「中学校は一年生の頃からの知り合いだ。」
解釈:(その人は)私が中学校において一年生だった頃からの知り合いだ。
解説:まず「中学校は」で中学校を脳内にイメージする。次に「一年生の頃」で認識の中から「一年生の頃」を特定するが、すでに中学校のイメージがあるのでその時の一年生の頃と特定できる。このセリフは語り手の意識で語られているので、語り手が中学校一年生だった頃と解釈できる。

 この用法では、助詞「は」は「の中の」といった意味合いに置き換えて解釈できるが、他の用法を考えると助詞「は」自体にそういった意味合いがあるとは思えない。この用法では「AはB」の形式でBがAに含まれているという関係性があるので、助詞「は」によってAを意識し次にBを認識から特定してAに結び付けるという働きが行われる際に、Bが「Aの中のB」と認識されることでそのような意味合いが生じるのだと考える。
 この用法では助詞「は」を省いても意味に変化はない。上の例で「北海道札幌で」「中学校一年生の頃」と言い換えてもまったく支障はない。なぜ「は」を入れるのかと考えると、一息に「北海道札幌で」のように語りだされると、聞き手はそういった情報が発信されると予想しておらず、焦って肝心な詳細を聞き漏らしかねない。そこでまず情報の大きな分類のほうを助詞「は」を使って意識させ、その後により詳細な情報を付加することで、相手に段階を追って正しく認識させようという狙いがあるものと推察する。この用法は口語的な印象があるが、文章で書かれているときは読み手はゆっくり時間をとって解釈できるので、こういった言い回しにする必要がないからだと思われる。

例9.語と語を複合語的に結びつける、助詞「が」の用法

 「AがB」の形で単語Aと単語Bを結合してひとつの語のように使用する用法。
 この使い方は慣用的に使われているものが多く、今はあまり使われない印象がある。

パターン1.地名などにみられる、固有名詞化する「が」
例:「桜が丘」「緑が池」など。
 一般的な地形を表す語(丘、池など)の前にその土地固有の情報(桜、緑など)を「が」で結んで特定の場所を表すような用法。
 「桜が丘」の例でいうと、あらかじめ「丘」が意識されていて、それを補足するために「桜」が結び付けられていると考える。以下にこの語の成り立ちを推測してみる。
 まず「丘といえばこの丘」という地元に固有の「丘」が人々の中に意識されている状況があり、単なる「丘」という語でその土地を指していた。そういった「丘」は各土地ごとに存在していただろう。そういう状況で違う土地の人間同士が「丘」について語るとき、自分がイメージしている地元の「丘」を相手にも特定してもらう必要がある。単に「丘」と言っただけでは自分の地元の丘なのか、相手の地元の丘なのかわからない。そこで自身のなじんだ地元の「丘」をイメージしつつ、対外的にその土地を特定できるような固有の情報を結び付けて「桜で有名だから『桜が丘』」のように言い表し、それが広く使われることで固有名詞化したのではないか。

パターン2.特定の意味合いが生じたため慣用的に使われる例
例:「おらが村」「わが世」など。
 「おらが村」は「私の村」と言い換えられるが、「私の村」という語には「私」の視点から見て「私」に結び付いた「村」、つまり「自分の故郷の村」という意味合いしか感じられないのに対し、「おらが村」にはもっと複雑なニュアンスが感じられる。
 「おらが村」は、あらかじめ心に実際の「村」のイメージを意識していて、それを他者に伝えるために関連した情報として自分自身を示す「おら」という語を「が」で結びつけている。つまり「村といえば自分の故郷の村に決まっている」という意識がもともとこの語の使い手の中にあって、その「故郷の村」を対外的に説明するために「自分の故郷がこの村である」という情報を付加している。そこには「村にとって(単なる一村民である)自分が出身者であることは対外的にも意味がある」という認識がうかがえる。
 そのため「おらが村」には単に「故郷の村」という意味合いの他に、構成員ひとりひとりの存在価値が高い小規模で家庭的な共同体であり、各個人が誇りを持って臆面もなく郷土愛をひけらかしてしまうような人情味あふれる村、といったイメージが生じる。このニュアンスを一語で出せる便利な言葉として「おら」という一人称が珍しくなった今も生き残った言い回しだと思われる。
 同様に「わが世」という語にも、「この世にとって自分の存在は有意義なもの」とする認識を感じるので、自分自身に満足している幸せな人物が不遜にも世界が自分中心に回っているような感覚を持っていることをひけらかしているようなニュアンスがある。

パターン3.時代がかった雰囲気をかもしだすため使われる例
例:「誰が為」「それが故」など。
 「誰が為」「それが故」はそれぞれ「誰のため」「そのせい」といった今では一般的な言い回しに換えられるが、助詞「が」を使った言い回しは最近あまり使われないために、時代がかった雰囲気や硬い感じの語感がある。あえて今もこういった言い回しが使われるときは、文章にそういった雰囲気を出す狙いがあるように思う。

助詞「は」と「が」の違いとその働き 22012年02月23日

助詞「は」と「が」の違いとその働き 1 続き

例4.意識のタイミングによって「は」と「が」で意味合いが変わる例:
 「のどは痛い。」「のどが痛い。」の文で説明する。
  1. 「のどは痛い。」の解釈
    まず「のど」を意識し、そこに「痛い」という状態であるという情報を付加している。
    つまり、こののどの痛みはのどを意識したら感じる程度のもので、裏を返せば意識しなかったら感じない程度の痛み。「のど」以外の個所は意識していないので他にも同様に痛いところがあるかどうかはわからないが、「のど」を優先している以上、少なくとも意識しようとしなくても感じる程度の痛みはどこにもないことがわかる。
  2. 「のどが痛い。」の解釈
    まず「痛い」という意識があり、それを公表する際にその個所が「のど」であるという情報を付加している。
    つまり、この場合の痛みは、いやおうなく意識にのぼってくる程度の痛みであり、切実なものと解釈できる。

例5.認識の解釈によって文の解釈が複数ある例:

パターン1-1.
 A:「全部チェックした?」
 B:「コンピュータは、したと思う。」
 という会話のBのセリフの意味。
 解釈1:全部はしていないがコンピュータに関するチェックはしたと思う。
 解釈2:自分はしていないがコンピュータは自動的に全部チェックしただろう。
 解説:Bの「コンピュータは」をどのように認識するかで解釈は変わる。解釈1では、「チェックすべき対象の中のコンピュータに関するもの」として認識している。解釈2では、質問者Aの意図を「全部のチェックがなされたか」と読み、解答者Bがコンピュータを「チェックをした者」として認識していると解釈する。

パターン1-2.
 A:「全部チェックした?」
 B:「コンピュータが、したと思う。」
 という会話のBのセリフの意味。
 解釈:コンピュータによって全部のチェックがなされたと思う。
 説明:まず質問に対して解答者Bは「したと思う」という答えを意識し、それを表明する際に「コンピュータ」という情報を付加している。Aは質問によって「全部のチェック」が必要だという認識を表している。Bが「した」という肯定的な回答を用意したということは、Aの認識通りに「全部のチェック」をしたということになる。(もし全部でなければ、「全部ではないけれど、した。」というような言い方でAの認識に修正を加えるはずだ。)
「全部のチェックが行われた」ことが明らかならば、付加された「コンピュータ」という情報は、明らかになっていない「チェックした者」であると推定される。よってこの場合は解釈は分かれない。

パターン2-1.
「私は好き?」の意味
 解釈1:私のことは好きですか。
 解釈2:私はいったい本当にそれを好きなのだろうか。
 解説:「好き」という感情が誰のものとみなすかで解釈が変わる。
 ・他人のものとみなすと解釈1のように、「私」に結び付いた「好き」という実感があるかを話相手に問う意味になり、私のことをあなたは好きかとの問いになる。「私」を意識させてその「私」に対し好意があるかどうかだけを聞いているので、ちょっとでも好意があればYESとなり、「AさんもBさんも好きだけどあなたも好き」といった状況も許容する聞き方。
 ・自分自身の感情とみなすと解釈2のように、自分自身には「好き」という感情があるのかどうか自問自答していることになる。その際の好きな対象は明かされていないが、好きという感情が自分のものであればそれは何に対するものかは自明であるのでわざわざ明示されなかったと解釈できるので、この場合の「私は」は、「自分自身の気持ちを意識してみると」と解釈できる。つまり、本人にはわかっている何かに対して「好き」かどうかを疑問に思っている、という意味になる。

パターン2-2.
「私が好き?」の意味
 解釈1:あなたが好きな相手は私ですか。
 解釈2:私のことを好きですって? 驚きだ。
 解釈3:この私があんなもの(または人)を好きだというのか?
 解説:「私が好き」という状態であるかを相手に問う文であると解釈すると、解釈1になる。相手の「好き」という実感に結び付いているのは「私」であるという状態か?という意味合いになるので、好意を自分に独占的に寄せているかの確認の言葉。
 「好き?」という、好意に対する疑念に対して「私」を結びつけている文であると解釈すると、解釈2や解釈3のような意味合いになる。疑問に思うということは心外なのだろうと推察できるので、上記のような解釈のニュアンスになる。
 ・「好き」という感情が他人のものとみなすと解釈2のように、「まさか私のことを好きなの?」という驚愕を意味する。相手の「好き」という感情に「私」が結び付いているのでこの場合の「私」は「好き」の対象となる。
 ・「好き」という感情が自分のものとみなすと解釈3のように、自分が「好き」という感情を持っているという仮定に対する驚愕を意味する。自分が持つ「好き」という感情の対象は自明なので、この場合の「私が」は、他人に対して「好きという感情の主は私である」と補足する意味合いと解釈できる。発言主の感情であることは状況で推察できるはずだがわざわざ補足したことで主体が「私」であることが強調されるので、「他でもないこの私が」といったニュアンスが出る。

例6.意識にあるべき対象が不定である場合

 「AはB」のAには基本的には「誰」「どこ」「何」などの内容不定な言葉を置くことができない。たとえば、「誰は医者だ。」「どこは北だ。」「何は言いたい。」といった文は日本語として間違った文のように感じられる。
 「AはB」のAは意識の中心に置かれるものなので、該当する実体がない可能性がある不定な言葉は基本的にはふさわしくないと考えられる。
 ただし、その言葉に実体があることが明らかな場合はその限りでない。

不定な言葉が使える例:
  • 言葉以外の手段や暗黙の了解でその言葉が特定のものを示している場合
    たとえば、お金を示すジェスチャーをして「ナニはあるのか。」と言う場合、「ナニ」がお金を示すことは明らかなので成立する。ジェスチャーがなくても話者間で特定の実体を示すのに使用するという暗黙の了解がある場合も同様に使える。
  • 文脈から実体が示唆される場合
    たとえば、「何はなくとも愛さえあれば」や「誰は知らねど」などという言い回しは、文脈からそれぞれ「何」は「愛以外のもの」、「誰」は「特定はできないが誰か人物」だとわかるため、それぞれ「何」や「誰」が示すものになんらかの実体はあるので成立する。
  • 言葉そのものとして言及される場合
    言葉そのものとして言及されるとき、字面を持った言葉という実体として扱えるので使える。
    たとえば「『誰』は不特定の人物を示す言葉である。」といった文は違和感なく成立する。
  • 不定でも確実に実体がある場合
    「誰か」「どこか」「何か」といった言葉は問題なく使える。「か」が付くことで「実体があるのは確かだが特定できないもの」を示す語になるため。「誰かは医者だ。」「どこかは北だ。」「何かは言いたい。」といった文は日本語として成立する。

 「AがB」のBも意識にあるべき対象なので該当する実体がないものを置くことはできない。なので、「誰」「どこ」「何」などの内容が不定な言葉が置かれる場合は実体のあるものと仮定するため、「誰?と反駁するような強い気持ち」のような実感として解釈される。「それは何。」は「それ」を指すものに何が当てはまるかを聞く言い方だが、「それが何。」は「それ」を指すものが「何であってもどうでもいい。」といった気持ちを表す言い方となる。

例7.相手の認識を想定して語る例

 幼児に対して「ボクが太郎くんね。おばさんはママのおともだちよ。」と語りかけるときの解釈:
 解釈:「あなたが太郎くんね。私はお母さんの友人です。」と言うのと同義。
 解説:発言者は「太郎くん」に会うことを予想していた。まず相手を自分の意識にある「太郎くん」のイメージと結び付けて本人であるか確認をとっている。そののち自分を意識させて相手の母親の友人であるという情報を結びつけることで伝えている。
 本来ならば解釈にある通り、「あなたが太郎くんね。私はお母さんの友人です。」というところだが、発言者は幼い相手が発言者の認識を自分自身の認識に置き換えて解釈できるか危惧している。そこで、幼児である「太郎くん」の認識では「自分」=「ボク」、「目の前の発言者」=「知らないおばさん」、「お母さん」=「ママ」、「友人」=「おともだち」であろうと想定し、それをそのまま当てはめて上記の例のように語っている。

助詞「は」と「が」の違いとその働き 12012年02月22日

 助詞「は」と「が」の働きとその違いの説明を思いついたので書いてみる。

    助詞「は」の働き
  • 「AはB」という文では助詞「は」は、Aを意識の中心に置き、Bを結びつける働きをする。
  • その際のAとBは、認識の中に該当する特定の実体イメージがあればそれを、なければ一般概念として採用する。

    助詞「が」の働き
  • 「AがB」という文では助詞「が」は、Aを意識にあるBに結びつける働きをする。
  • その際のAとBは、認識の中に該当する特定の実体イメージがあればそれを、なければ仮想のものとして採用する。

  • 上記の「意識」とは、今まさに処理されている、脳内で顕在化している情報を指す。
  • 同じく「認識」とは、経験や知識として脳内に蓄積されている、必ずしも顕在化しているとは限らない情報を指す。

    「は」と「が」の比較と考察
  • どちらも意識している情報に他の情報を結びつける働きをする。
  • 情報が意識されるタイミングは「は」は言葉が発された時で「が」は発される前。
  • 「は」の語順は、助詞の前に「意識すべき情報」、後に「意識に結び付ける情報」となる。
    まず意識しないことには他の情報を結び付けられないのでこの語順になるのでは。
  • 「が」の語順は、助詞の前に「意識に結び付ける情報」、後に「既に意識している情報」となる。
    既に意識している情報は自明なので後回しにし、この語順になるのでは。
  • どちらも情報に対し該当する特定の実体イメージが認識上にないかサーチしてヒットしたものを優先的に用いる。
  • 情報に特定の実体イメージがないとき、「は」は一般概念としてとらえる。
    不確かなものは意識できないので意識すべき情報はなるべく特定して意識化を試みるが、どうしても特定できないときは総体のことだと推定するしかないので、結果的に概念として扱われるのではないかと思われる。
  • 情報に特定の実体イメージがないとき、「が」は仮にあるものとしてとらえる。
    不確かなものは意識できないが、「が」は既に意識されているという前提なので、特定の確かなものであると推定して扱われるのではないかと思われる。



 この説明だけでは抽象的でわかりにくいので例を挙げてみる。

例1.
 喫茶店で給仕人がコーヒーと紅茶を運んできたとする。
 給仕人がコーヒーを誰のところに置こうか迷っているな、と感じた時、コーヒーを頼んだ人が「私がコーヒー。」と言う場合、その人は給仕人の意識にある「コーヒー」に自分を結びつけ、自分がコーヒーをもらう対象だと知らせている。「コーヒー」という意識が先行してそれに「私」を結びつけるので、「が」が使われる。
 同様のケースで「私は紅茶。」と言う場合、まず給仕人に自分を意識させ、その上で自分と紅茶を結びつけ、自分が紅茶をもらう対象だと知らせている。「私」を意識させてから「紅茶」を結びつけるので、「は」を使う。

例2.
 知人と散策していたとする。不意に目の前に水の流れが見え、それが川だと認識したとする。
  • 「あれは川だ。」と知人に言った場合:
    助詞「は」は「あれ」と示された川の視覚イメージを相手に注目させ、それに「川」という一般概念を結びつける働きをする。川の存在に気づいていないかもしれない知人に教えてあげようという目的の言葉。
  • 「あれが川だ。」と知人に言った場合:
    助詞「が」は「あれ」と示された川の視覚イメージを、相手の意識にある「川」のイメージ(「この辺りに川がある。」という想像)に結び付ける働きをする。この場合、知人は水音や周辺地理の知識などによって川の存在にうすうす気づいているだろう、という前提がある。「川がありそうだ」と思いつつ見つけていない知人に実際の川を見せてあげようという目的の言葉。

 上記の例は、目の前にある実体から視覚情報によって得たイメージをそのまま認識に取り込んでいるので、文中で何を示すのかがわかりやすい。視覚によらない認識やイメージの一部を使った認識の例を次にあげる。

例3.認識の提示状況によって解釈が変わる例
 「花」と「美しい」を「は」や「が」で結ぶときの解釈をパターンごとに説明する。

パターン1:認識に特定の実体イメージが見当たらない場合

1-1.「花は美しい。」という一行で成る文を読んだ場合の言葉の意味。
 解釈:一般的に花というものは美しいものだ。
 解説:まず「花は」まで読むと、読者は認識の中に「花」に該当するものを探す。この文に関して何らかの情報があれば、「書かれた時代の人々の共通認識からしてこの場合の花は桜。」のように同定できる場合もあるが、今回の例では何の情報もないので、特定の「花」に同定できない。そこで花に関しては保留し、続きの「美しい」までを読む。一般的に花は美しいとされているので、この情報では「花」を特定できない。よって、読者の脳内にある「花」という一般概念を思い浮かべ、意識の中心に置く。そしてそこに「美しい」という認識を結びつける。一般的な「花」に「美しい」という認識が結びついて上記の解釈となる。

1-2.「花が美しい。」という一行で成る文を読んだ場合の言葉の意味。
 解釈:何らかの花のイメージに対し、その美しさに感銘している書き手の気持ちをそのまま表している。
 解説:まず「花が」まで読むと、読者は認識の中に「花」に該当するものを探す。何の情報もないので、該当するものがみつからない。とりあえず受け手は適当な「花」のイメージを仮に思い浮かべる。次に「美しい」まで読んで、「美しい」という概念の実体イメージである「美しい」と思う実感を意識し「花」のイメージを結びつける。実際には読者にはそんな実感はないので、経験から美しいものを見たときの気持ちを再現して意識する。結果的に読者は花を見て美しいと感じる気持ちを疑似体験する。よってこの文は花の美しさに対する書き手の主観的な感銘の気持ちをダイレクトに表したものと受け取れる。

 以上がパターン1の解釈だが、上記はあくまでも独立した一行文だという前提での解釈で、この文の前後いずれかに他に文がある場合、その中で読者に何らかの認識が明かされるならば、その際は必ずしも上の通りの解釈にはならない。それはパターン3で説明する。

パターン2:認識に特定のイメージが存在する場合

2-1.花飾りのついた帽子を前にして「花は美しい。」と聞かされた場合の言葉の意味。
 解釈:この帽子の花飾りは美しい。帽子そのものには感心しないが。
 解説:まず「花は」と聞くと、聞き手は認識の中に「花」に該当するものを探す。視覚によって得た花飾りのついた帽子のイメージが認識にあるので、花飾りがこの場合の「花」と同定される。そこで花飾りを意識の中心に置く。次に「美しい」と聞いて、花飾りに「美しい」という(発言者の)認識を結びつける。この過程で「『この帽子の花飾りは美しい。』と発言者は思っている」という解釈が生まれる。一方、「花飾りのついた帽子」という限定的なイメージの中で、わざわざ花の部分だけに「美しい」という認識へのリンクが付加されたことで、除外された帽子本体については発言者が意図的に選択して「美しい」と言うことを避けたことが暗に感じられる。そこで帽子本体に関して否定的なニュアンスが加わり、上記の解釈となる。

2-2.花飾りのついた帽子を前にして「花が美しい。」と聞かされた場合の言葉の意味。
 解釈:この帽子では特に花飾りの部分が美しい。
 解説:まず「花が」と聞くと、聞き手は認識の中に「花」に該当するものを探す。視覚によって得た花飾りのついた帽子のイメージが認識にあるので、花飾りがこの場合の「花」と同定される。次に「美しい」と聞いて、(発言者の)意識にある「美しい」と思う気持ちに花飾りを結び付ける。発言者はまず総体としての帽子を見て「美しい」という意識を持ち、その意識に「花飾り」のみのイメージを結び付いていることから、「発言者は帽子を見て美しいと感じたが、その理由は花飾り部分にあると判断した。」という状況が浮かび、上記のような解釈となる。

 以上がパターン2についての解釈だが、パターン1に比べて具体的な前提となる認識があるため、認識の何が語られ何が無視されたかによって相対的な言外のニュアンスが加わってくる。パターン2-2では発言に至る意識のタイミングがどうであったかでも言外のニュアンスが生まれている。
 パターン2は視覚によるイメージであったが、文章による認識設定があるパターンを次に見る。

パターン3:前後の文で特定の認識が明かされる例

3-1.「すべては美しいか醜いかだ。花は美しい。」と言う文章の2文目。
 解釈:花というものに関しては、自分にとって美しいか醜いかでいえば、美しいほうに分類する。
 解説:1文目で書き手は「すべては美醜の二律背反である」という認識を持っていることが示されている。
 2文目の「花」は何の条件もないので一般的な花と解釈するが、書き手の認識にある「すべて」という把握不能な大きな集合から「花」という概念のみに言及しているので、「他はどうか知らないが花に関しては」といったニュアンスが出る。また「美しい」に関しては、この書き手の認識では二律背反である美醜の「美」の方というニュアンスになる。
 この例では2文目を「花が美しい。」と置き換えると違和感のある文になる。「花」だけを「美しい」という認識に結び付けてしまうと「花以外のすべてのものは醜い」ということになってしまい、わざわざ二択理論を前に出す意味がなくなり論理的に破たんを感じるため。

3-2.「花は美しい。サボテンを見てナオミは思った。」と言う文章の1文目。
 解釈:このサボテンに咲いている花は美しい。花以外の部分は美しくないが。
 解説:1文目だけを読むと1-1のパターンのように「一般的に花というものは美しいものだ。」と読めるが、2文目で1文目は新たに登場したナオミなる人物の意識であったことが明らかになる。その際、ナオミなる人物の認識には視覚によりサボテンのイメージが入っている。よって1文目の「花」はナオミが見ているサボテンに咲いた花と推定できる。サボテンのイメージの中で花部分のみ「美しい」としていることから、サボテンそのものは「美しい」ものではないとナオミなる人物が考えていることがわかる。
 この文章では書き手は相手の知りようのない認識を後から出してきているので2文目を読んだ後から1文目の意味合いが決まる。読者は一瞬混乱し、警戒して用心深く読むようになる。結果的に読者は文章にのめりこむこととなる。わざと背後の認識を後出しすることで読者をひきつけるテクニックといえる。
 このパターンでは、1文目は「花が美しい。」と置き換え可能だ。その場合は、「このサボテンでは花が特に美しい。」といったニュアンスになる。(パターン2-2と同様の解釈により。)

 「AはB」の構文で、パターン1-1のように認識の提示がなくてもAを一般概念ではなく特定の実体として解釈する例:
  • Aが固有名詞の場合
    「花子は美しい。」のように、固有名詞が使われている場合、実際にはどの花子さんか知らなくても特定の「花子」という名の人物であることは推定できるので、特定の花子さんに対して「美しい」と言っていると解釈する。
  • Aを限定する言葉が付加されている場合
    「その花は美しい。」のように「その」と指定されていれば、実際にはどの花だかわからなくても特定の花を示そうとしているのだと認識できる。よってこの場合は一般論ではなく特定の花に対して「美しい」と言っていると解釈する。
  • 状況からAが限定される場合
     「花は枯れかけている。」のように、「枯れかけている」という全ての花には適用できない特定の状態が示されているような場合、「花」は特定の状況にある実体であると推定できるので、特定の花に対して「枯れかけている」と言っていると解釈する。

 助詞「は」と「が」の違いとその働き 2に続く

「よろしかったでしょうか」という言い回しを考える2011年09月24日

 買い物で店員がレジを打つ時など注文を確認するときに、
 「~でよろしかったでしょうか。」
 と客に聞く例が増えている。
 かつては「~でよろしいでしょうか」の言い方が普通だった。
 この「よろしかったでしょうか」の表現が一部の人々に不評だ。
 過去形であるがゆえに「よろしいでしょうか。」に比べて客の今の気持ちを無視しているような印象があるからだろう。顧客の満足度をひたすら上げる言い方を目標とするなら、この変化は後退しているように感じられる。
 また、過去のどの時点を指しているのかがピンと来ず、違和感を持つ人が多いのだと思う。

 これは私の仮説にすぎないが、「よろしかったでしょうか」は効率化のために契約時点を意識して使われるようになったのではないか。

 精算時に「~でよろしいでしょうか。」と聞くのは客へのご機嫌うかがいのような聞き方でいて、実際の意味は確認の依頼だ。
 店員がまさにレジを打たんとしているときに、この期に及んで購入意思を確認する理由はない。レジに並んだ商品が客の希望通り揃っているかを確認したいのだ。言い換えれば、客が購入意思を見せた時点で成立した売買契約を実行するにあたって客の意図した契約内容通りであるかの確認を依頼しているのだ。
 「~で合っていますか。」ではなく客の希望を問うかのように思わせる言い方をしているのは、客に確認作業をさせつつ、客には自分が丁重に扱われていると感じさせる伝統的なテクニックだ。

 従来過去形でなかったのは、「よろしいかどうか」の内容として現在レジ台に並べられた商品にフォーカスをあてているのと、商品をレジ台に載せるという行為で購入意思を見せた時点と支払いの時点との間のわずかな時間に立派なお客様が心変わりなどするわけがないという前提があるため、わざわざ過去形にする必要がなかった。
 しかし、「よろしいでしょうか。」という言葉の響きそのままに自分の意向を聞かれたのだと思ってしまう客もいるかもしれない。あらためて問われれば、散財を後悔したり迷いのあった商品を別のに替えたくなってしまうものだ。わきまえた客なら自分が心変わりしてしまっても、店側にミスがなければ「これでよい」と答えるものだ。今さら変更することは、店員に無駄な手間をかけさせるし、レジも混乱して他の客にも迷惑をかけてしまう。なによりほんの数秒前に見せた自分の意思を覆すのはカッコ悪い。
 従来の言い方である「よろしいでしょうか。」は、客に無限の裁量があるかのようなファンタジーを与えるが、実質的には「よろしかったでしょうか。」と意味するところは同じだ。実際には「良識」という自己規制によって、客は再確認以上の裁量は事実上得られない。

 それでも「よろしいでしょうか。」の語感に甘えて意思を変えて商品のキャンセルや変更を求める客がいた場合、店は断れないだろう。応じなければサービスの悪い店という評判が立ってしまう。
 そこで登場したのが「よろしかったでしょうか。」という言い回しではなかろうか。
 過去形にすることで、「よろしいかどうか」の内容として契約時(購入意思が示されたとき)に客が思い描いていた契約内容がフォーカスされる。確認を求めるという意味は同じだが、「よろしいでしょうか。」とは違って、たとえ客の気が変わっていたとしても、あくまでも契約時のことを聞かれているので変更を言い出す余地はない。
 そのため、現時点で契約はすでに効力を持っており、もう変更できる段階をすぎているのだということを暗に示せる。より混乱なく目的(客に契約内容を確認させること)が達成できる言い方だ。

 「よろしかったでしょうか。」が勢力を広げているのなら、そちらの言い方を選ぶほうが利があると思われる理由があるはずだ。
 「よろしいでしょうか。」を従来の常識的なセンスで解釈せず、言葉通りに受け取って意思をころころ変えて店を混乱させるお客さんが増えたのかもしれない。あるいはそんなお客さんは前からいたが、それに応えてあげる余力が店から失われたのかもしれない。または単に客のイレギュラーな反応を極力避けて、極限まで効率を上げたいのかもしれない。
 私が考え付くのはそんなところだ。

 「よろしかったでしょうか。」にはさまざまなバリエーションがある。
 たとえば、「お飲み物は(なくても)よろしかったでしょうか。」とか、「紙袋(の梱包)でよろしかったでしょうか。」とか。
 一見するとこれらの表現はおかしく感じる。飲み物や紙袋は客が注文したわけではなく、イメージすらしていなかっただろうに、「よろしかった」かと聞かれているからだ。
 これは「よろしかった」かが過去の客の気持ちではなく契約に関して問われているのだと解釈すると説明がつく。
 この店では購入品に飲み物が含まれていて商品を紙袋に入れるのが標準的な契約なのだろう。
 「頼まれなかったので飲み物の含まれない特殊な契約と解釈した。特に指定されなかったので暗黙の了解で通常通り紙袋に入れる契約だと解釈した。そういう内容の契約として処理したがよかったか。」
 といったところか。
 これらの用法は従来のように「よろしいでしょうか。」と言っても不都合はなさそうだ。これから用意するものに対しての質問なので、客が変更を求めても対応できるはずだ。
 わざわざ「よろしかったでしょうか。」という用法を使うとすれば、できれば言うがままに応じてもらったほうが都合がいいという事情があるのか、あるいは常に同じ言い回しに統一しておけば効率よく対応できるメリットがあるのだろう。

 「よろしいでしょうか。」はゆかしい表現だ。客の要望をすべて受け入れてくれそうな恭順を感じる。しかし、それは客のほうも相手を思いやって自分を律して応じるからこそ商売として成り立つ。だからこそゆかしい。
 昔の商圏は限られていた。地元の客が地元の店を利用するものだったから、店は長い目で見て一時の損も代々の顧客獲得を優先させて受け入れた。今は通信や交通の便がよくなり、全国どこでも安さを求めて顧客はあっさり移動してしまう。店は効率化を求められる。
 「よろしかったでしょうか。」が効率化の産物なら、ゆかしさが損なわれたとしても、顧客にもちゃんと見返りはあったのではないか。

 ところで、「よろしかったでしょうか。」は東北の方言から広まったのではないかという説があるようだ。そうだとすると、ここで論じたことは的外れだったかもしれない。
 しかし自然にその言い回しの勢力が強まったのなら、その言い回しのほうが優れていると考える人が増えたということは間違いがないだろう。
 「よろしかったでしょうか。」を悪しきマニュアル言葉として排除し「よろしいでしょうか。」という言い回しに戻すよう業界に要請する動きもあるようだが、それは本末転倒ではないかと思う。
 社会全体で「よろしいでしょうか。」を標準として個々の事情を考察せず押し付けるのなら、それこそ言葉のマニュアル化に他ならず、ちっともゆかしくない。
 信用で高級品を定価売りするような店ならば、顧客はサービスも込みでそういう店を利用するのだろうから、安売り店の真似をせず今までどおり下にも置かぬような扱いをしてくれと客が求めるのはわかる。
 でも、安さを売りに全国津々浦々から客が集まって行列をなすような店なら、愛想のない事務的な応対でもいいからサクサクと列をさばいてくれるほうが顧客のためになるだろう。
 最適な言い回しは状況次第ではないか。

 私自身、「よろしかったでしょうか」という言い回しを初めて聞いた時に違和感を持ったひとりだが、状況に関係なく文法誤りでもない特定の言い回しを取り締まることが正当化されるのは、それ以上に違和感がある。

「やる」と「あげる」2011年08月31日

 「花に水をあげる」「犬にエサをあげる」「赤ちゃんにミルクをあげる」
 といった敬語の用例が「間違っている」と問題視され、時に日本語の乱れとして話題になる。
 花や犬や赤ん坊は敬語を使うべき対象ではなく、「~をやる」が正しいという。
 何年か前に、専門家によって
 「本来は『やる』が正しいが、敬語を丁寧な表現として使う用例が増え、そういう新しい表現として『あげる』も許容される。」
 といった感じの結論で落ち着いたようだ。

 事を荒立てる気持ちはないが、個人的にはこの結論には不満を感じている。新しい概念を導入しなくても、先にあげた「~をあげる」という用例は、従来通りの敬語システムを踏襲して使われていると思う。従来「やる」であった状況で「あげる」とする敬語使用例が増加しているのは、動植物などに対する思想や観念に変化があったため、敬語を使う対象か否かの判断にも変化が出ている結果だ。

 かつては「人間がすべての生物の中で最も優れており、頂点に君臨している。」という思想が支配的だった。動植物は人間に近いものというよりは、財物のような扱いをされていた(今でも法的にはそういう扱いだ)。人間より劣った存在・あるいは物に準ずるものとしてとらえられていたから、動植物には敬語を使わないのが自然だった。
 子供に関しても、今と違って親の所有物のようにとらえられていたし、半人前として人間未満に思われていた。動植物と違って子供の場合は人間として身分などによって敬語の対象になりうるが、特別な家庭でない限りは自分の子供に敬語を使わないのが普通で、特に第三者に自分の子供を語るときには、相手に敬意を示すために(子供に限らず)身内には敬語を使わず謙遜するのが常識だった。
 以上のような観念で考えると、生き物や自分の子供には「やる」と表現するのが当たり前だ。

 しかし、最近の動植物や子供に対する意識は変化している。
 子供のころから「ミミズもオケラもおともだち」という理念で育った世代が主流になってきているし、科学の発展により「遺伝子レベルでは人間もチンパンジーも案外大差ない」とか「草花も傷つけられると痛みの正体である電流が流れる」、「実は昆虫はかなり進化した生き物」などといった豆知識が耳に入る。人間以外はみな下等だという常識は崩れた。
 「動植物は人間と同じ『生き物』という大きなくくりにある仲間だが、身内ではない。」
 というスタンスが今の主流だと思う。
 この考えの下での動植物の扱いは、見知らぬ人に対する
 「同じ人間という大きなくくりにある仲間だが、身内ではない。」
 というスタンスに近くなる。身内でもなく見下す理由もない見知らぬ人には敬語を使うものだ。同様の考えで、身内でもなく見下す対象でなくなった動植物も、敬語を使うのが自然だ。
 そして子供に対する表現。こちらにも意識変化があった。今では小さな子供もひとりの人間として尊重しようという社会的な合意があり、少子化により子供は未来を担う社会の宝であるという考え方も広まった。一方で近所同士の関わり合いは希薄になって身内のような親しさがなくなった。今は近所の子供にも「~をあげる。」と敬語で話す人も多いのではないか。
 そうは言っても自分の子供はあくまでも身内なのだから、普通に考えると敬語を使うのは解せない。だがこれは、人間関係の変化で説明がつくと思う。
 今は一人暮らしや共稼ぎの核家族が主流で、家族よりも職場や学校の友人のほうが一緒にいる時間が長くて親密だという人も多いだろう。乳幼児と接点のないまま親になる人も多く、自分の子供を天使や宇宙人など距離感のある対象に例える表現をさまざまなメディアで見かける。つまり、言葉の通じない赤ん坊は異界から来た客で、話のわかる知り合いはより身内的存在であるという意識を持つ人が増えているのではないか。そういうスタンスでみると、知り合いに自分の子供について「そろそろミルクをあげなくては。」などと敬語で語るのも、従来からの敬語の概念で説明できる。

 「やる」と「あげる」のどちらが正しいのかは、国語の問題というよりは、思想の問題だ。

 「やる」派からみると、「あげる」派はみすみす人間の万物の霊長という座を明け渡して、ヒューマニズムの時代からお犬様の時代に逆行するような、愚かな存在に感じるかもしれない。
 「あげる」派からみると、「やる」派は客観的で科学的なものの見方やグローバルな視点での発想ができない頭が固い人たちで、情を感じる対象の小さい野蛮な存在に感じるかもしれない。

 この論争がどちらか一方のみを正解とせずに決着したのはよかった。
 一方を封印することは、思想統制に他ならない。
 とはいえ最近の科学の知見やエコロジーに関心が高まって生態系を構成する諸々を尊重する気運からいえば、動植物に対して「あげる」派が増えるのが当然だと思うので、イレギュラーな用法として片づけられたのは残念だ。
 もっとも「やる」派が今後消えゆく運命だとも思わない。
 思想は時代によって変化していく。
 そのうち他人よりも自分の世話する動植物に身内感を持つ人が増えて、
 「昨日わが家の愚花に水をやりまして。」
 なんて言い方が普通になるやもしれない。