チランジアの近況2011年08月27日

 今年は栽培適温より暑かったこともあって、ずっと室内でチランジア栽培していたが、夏に入ってからしばらくしたある時期に、緑葉系のものを中心にいくつか枯れてしまった。うまく梅雨をのりきったのに、残念だ。

 一時に突然起こったのだが原因が思い当たらない。なるべく窓を開けていてあまり直射日光も当たっておらず、水やり頻度は2日に1回くらいにしていたが、晴れていても湿度が高いときに過湿になったのだろうか。

 気をとりなおして今は室外においている。
 例年これからの時期に傷んでしまうことが多いので、秋の日差しが良くないのかと思い、他の植物の陰においている。
 最近雨が降るようになったので、水やりは控えめ。

「させていただく」が流行するわけ2011年08月28日

 最近、経歴や予定を語るのに「~させていただく」という言い回しがされることが増えた。
 たとえば、タレントがテレビで「○○に出演させていただきます。」などと告知するような場合だ。
 この言い回しに対して、敬意が過剰だとか敬語として間違っているという意見を耳にする。
 間違っているという説では、実際に相手に許可をもらうわけでないからこの言い方は変、ということらしい。かわりに「~いたします。」のような謙譲語の方がふさわしいのではないか、という意見も聞く。  これについて考えてみた。

 この言い回しに過剰感があるのは確かだと思う。
 ただ、間違っているとは思わない。
 かつてない敬語の使われ方が現れるのは、敬語を使う理由となる道徳や思想に変化があったからだろう。最近の世間が求める道徳には、この言い回しはうまくフィットする。

 その世間の求める道徳とは、「すべては皆様のおかげ」 だ。
 相手から許可を得て自分の行為があるように述べるのは、
 「今あるのはみなさまのおかげだと感謝していますよ。」
 というメッセージを込めているからだ。

 このような謙虚すぎる思想が現れた理由の一つは長引く不況だろう。
 好景気の時には自分の得た仕事や経歴はみな自分の実力とみなすのが当たり前だったが、最近では自分だけの力ではないという感覚を持つ人も増えただろう。

 しかしながら、実際にこういった思想が一気に広がったのは自発的な謙遜よりは、社会的なプレッシャーを受けてのことではないかと私はにらんでいる。
 もともとは功成り名遂げた人物が
 「自分の功績は世話になった人の尽力のおかげだ」
 と語って世間から徳の高さを賞賛されるべき性質のこの思想だが、最近は当然視され、濫用されて、他人の功績に直接関係ない人が、
 「すべては皆のおかげなのだから恭順をしめせ。」
 と迫るような使われ方をされている。

 この数年で、何人かの若いタレントやアスリートが、言葉遣いや態度が悪いとメディアから盛大にバッシングを受けた。
 かつてなら陰でチクチク言われる程度の他人のマナーがおおっぴらに俎上に載せられて、寸分の活躍の場も奪おうかという勢いでバッシングされるのは、
 「公衆の人気や公金によるサポートを受ける者は皆のおかげで今があるのだから、公を形成する無関係な一個人にでさえ礼を失した態度は許すまじ。公の力で排除すべし。」
 といった考え方が蔓延しているからではないか。
 自分がターゲットになることを思えば、このような社会の空気は脅威だ。人気商売のタレントが自分の生殺与奪権を持つ不特定多数の見えない相手に対して敬語を使いだしたのは当然の成り行きだ。
 「~させていただく」という言い回しになるのは、その行為をしたいのは発言者だが、敬意を表されている公衆は別にそれを望んでいるわけではなく、その気になればそれを阻止できるという実態を受けているのだろう。
 「~いたします。」といった言い回しにならないのは、その言い回しでは「相手を喜ばせるために」その行為をするといったニュアンスに受け取られる可能性があるので、自分の活躍を望んでいるとは限らない相手に使うにはリスクがある。

 「~させていただく」という言い回しは有名人のみならず使うようになったが、理由は同じことだ。誰しも学校なり職場なり自治体なり、なんらかの公のものに所属している。直接世話にならずとも、先に公のものに所属して公を形成した人々が存在しなければ今のありようはない。ということで謝意を表しつつ自分の存在を認めてもらいたい、という気持ちでこの言い回しが出てくるのだ。

 「~させていただく」の評判が悪いのは、発言者が持つ警戒心が伝わるからだろう。しかしこの言葉使いを責めたところで汎用される流れは変わらない。
 敬語を使う動機は、相手に敬意を示していると知らせることだ。どんなにおかしいとやり玉にあげられても、この言い回しをする人が敬意を示そうとしていることは否定されないだろう。しかし、言語学者に適切と認められる言い回しでも、伝えたい相手に敬意が足りないとみなされては意味をなさない。
 世間が求める道徳性や敬意の対象が広がり強まる限り、この言い回しは廃れない。
 どうしてもやめさせたいのならば、
 「個人の功績は個人のもの、個人の悪癖も個人のもの。他人に口出し無用。」
 という考え方を主流派になるまで盛り返すしかないのでは。

敬語と観念2011年08月30日

 以下に二つの例文がある。
 例文1:「先生がそうおっしゃった。」
 例文2:「先生がそう言った。」

 もし
 「どちらの文が正しいか?」
 と問われたら、たいていの人は例文1だと答えるだろう。「先生」とは一般的に尊敬される存在で、敬語を使っているのは例文1だから。
 しかし、
 「ドラマの中で悪ぶった生徒が他の生徒に言うセリフとして適切なのはどちらか?」
 という設問なら、例文2を支持する人が圧倒的だろう。手っ取りばやくキャラクターを理解してもらうには、模範的な例文1の言い方をさせたのではイメージが狂う。それでなくとも今どきは大人の目のないところで例文1のような言い方をする生徒は稀だ。

 つまり、例文2が「正しくない」としても、日本語として成り立たないというわけではなく、場合によっては使いうる言葉だ。例文1が「正しい」のは、設問に何の条件もついていなければ一般常識が適用されるので、常識的な道徳観で「正しい」のだ。敬語を使うべきかどうかは、文法の問題のようでいて、一般常識や道徳を問うのに近い。純粋に文法を問うのなら、「どちらが敬語を使っているか?」という設問が適切だろう。

 敬語の発達は過去にあった身分制度が影響していたはず。切り捨て御免がまかり通る時代なら、自分の身を守るために、言葉で見ず知らずの相手の立場が判断でき身分を推定できる敬語は便利だ。
 身分制度がなくなって、かなり年数を経た現在では、絶対に敬語を使わなくてはいけないという場面や強い拘束性は減った。そういう中でどのように敬語を使うかをみると、その使い手個人の思想がそこはかとなく感じられる。
 たとえば、周囲の友人が教師の悪口を言っている中でも例文1のような言葉づかいを崩さない人は、教条主義的な人と思われるかもしれない。相手や状況次第で例文1や例文2の使い分けをする人は、実利主義者と思われるかもしれない。どんなかしこまった席でも例文2のような言葉づかいをする人は、反社会的な素質があると思われるかもしれない。
 現代の敬語は、地位を表すというよりも、その人のスタンスを表している。

 かつてない敬語の使用例が広まると、「日本語の乱れ」とされ「間違った日本語が流布されている」と非難されるが、敬語の利用実態が変わるのは、多くは社会通念に変化が起きているからだ。考え方が変わればスタンスも変わる。
 思想や観念は時代によって変化するから、ちょっと聞きなれない言い回しに目くじらを立てる前に、どうしてそういう言い回しが増えたのかを推察すると、時代の雰囲気が見えてきたりして面白い。

「やる」と「あげる」2011年08月31日

 「花に水をあげる」「犬にエサをあげる」「赤ちゃんにミルクをあげる」
 といった敬語の用例が「間違っている」と問題視され、時に日本語の乱れとして話題になる。
 花や犬や赤ん坊は敬語を使うべき対象ではなく、「~をやる」が正しいという。
 何年か前に、専門家によって
 「本来は『やる』が正しいが、敬語を丁寧な表現として使う用例が増え、そういう新しい表現として『あげる』も許容される。」
 といった感じの結論で落ち着いたようだ。

 事を荒立てる気持ちはないが、個人的にはこの結論には不満を感じている。新しい概念を導入しなくても、先にあげた「~をあげる」という用例は、従来通りの敬語システムを踏襲して使われていると思う。従来「やる」であった状況で「あげる」とする敬語使用例が増加しているのは、動植物などに対する思想や観念に変化があったため、敬語を使う対象か否かの判断にも変化が出ている結果だ。

 かつては「人間がすべての生物の中で最も優れており、頂点に君臨している。」という思想が支配的だった。動植物は人間に近いものというよりは、財物のような扱いをされていた(今でも法的にはそういう扱いだ)。人間より劣った存在・あるいは物に準ずるものとしてとらえられていたから、動植物には敬語を使わないのが自然だった。
 子供に関しても、今と違って親の所有物のようにとらえられていたし、半人前として人間未満に思われていた。動植物と違って子供の場合は人間として身分などによって敬語の対象になりうるが、特別な家庭でない限りは自分の子供に敬語を使わないのが普通で、特に第三者に自分の子供を語るときには、相手に敬意を示すために(子供に限らず)身内には敬語を使わず謙遜するのが常識だった。
 以上のような観念で考えると、生き物や自分の子供には「やる」と表現するのが当たり前だ。

 しかし、最近の動植物や子供に対する意識は変化している。
 子供のころから「ミミズもオケラもおともだち」という理念で育った世代が主流になってきているし、科学の発展により「遺伝子レベルでは人間もチンパンジーも案外大差ない」とか「草花も傷つけられると痛みの正体である電流が流れる」、「実は昆虫はかなり進化した生き物」などといった豆知識が耳に入る。人間以外はみな下等だという常識は崩れた。
 「動植物は人間と同じ『生き物』という大きなくくりにある仲間だが、身内ではない。」
 というスタンスが今の主流だと思う。
 この考えの下での動植物の扱いは、見知らぬ人に対する
 「同じ人間という大きなくくりにある仲間だが、身内ではない。」
 というスタンスに近くなる。身内でもなく見下す理由もない見知らぬ人には敬語を使うものだ。同様の考えで、身内でもなく見下す対象でなくなった動植物も、敬語を使うのが自然だ。
 そして子供に対する表現。こちらにも意識変化があった。今では小さな子供もひとりの人間として尊重しようという社会的な合意があり、少子化により子供は未来を担う社会の宝であるという考え方も広まった。一方で近所同士の関わり合いは希薄になって身内のような親しさがなくなった。今は近所の子供にも「~をあげる。」と敬語で話す人も多いのではないか。
 そうは言っても自分の子供はあくまでも身内なのだから、普通に考えると敬語を使うのは解せない。だがこれは、人間関係の変化で説明がつくと思う。
 今は一人暮らしや共稼ぎの核家族が主流で、家族よりも職場や学校の友人のほうが一緒にいる時間が長くて親密だという人も多いだろう。乳幼児と接点のないまま親になる人も多く、自分の子供を天使や宇宙人など距離感のある対象に例える表現をさまざまなメディアで見かける。つまり、言葉の通じない赤ん坊は異界から来た客で、話のわかる知り合いはより身内的存在であるという意識を持つ人が増えているのではないか。そういうスタンスでみると、知り合いに自分の子供について「そろそろミルクをあげなくては。」などと敬語で語るのも、従来からの敬語の概念で説明できる。

 「やる」と「あげる」のどちらが正しいのかは、国語の問題というよりは、思想の問題だ。

 「やる」派からみると、「あげる」派はみすみす人間の万物の霊長という座を明け渡して、ヒューマニズムの時代からお犬様の時代に逆行するような、愚かな存在に感じるかもしれない。
 「あげる」派からみると、「やる」派は客観的で科学的なものの見方やグローバルな視点での発想ができない頭が固い人たちで、情を感じる対象の小さい野蛮な存在に感じるかもしれない。

 この論争がどちらか一方のみを正解とせずに決着したのはよかった。
 一方を封印することは、思想統制に他ならない。
 とはいえ最近の科学の知見やエコロジーに関心が高まって生態系を構成する諸々を尊重する気運からいえば、動植物に対して「あげる」派が増えるのが当然だと思うので、イレギュラーな用法として片づけられたのは残念だ。
 もっとも「やる」派が今後消えゆく運命だとも思わない。
 思想は時代によって変化していく。
 そのうち他人よりも自分の世話する動植物に身内感を持つ人が増えて、
 「昨日わが家の愚花に水をやりまして。」
 なんて言い方が普通になるやもしれない。