敬語と観念2011年08月30日

 以下に二つの例文がある。
 例文1:「先生がそうおっしゃった。」
 例文2:「先生がそう言った。」

 もし
 「どちらの文が正しいか?」
 と問われたら、たいていの人は例文1だと答えるだろう。「先生」とは一般的に尊敬される存在で、敬語を使っているのは例文1だから。
 しかし、
 「ドラマの中で悪ぶった生徒が他の生徒に言うセリフとして適切なのはどちらか?」
 という設問なら、例文2を支持する人が圧倒的だろう。手っ取りばやくキャラクターを理解してもらうには、模範的な例文1の言い方をさせたのではイメージが狂う。それでなくとも今どきは大人の目のないところで例文1のような言い方をする生徒は稀だ。

 つまり、例文2が「正しくない」としても、日本語として成り立たないというわけではなく、場合によっては使いうる言葉だ。例文1が「正しい」のは、設問に何の条件もついていなければ一般常識が適用されるので、常識的な道徳観で「正しい」のだ。敬語を使うべきかどうかは、文法の問題のようでいて、一般常識や道徳を問うのに近い。純粋に文法を問うのなら、「どちらが敬語を使っているか?」という設問が適切だろう。

 敬語の発達は過去にあった身分制度が影響していたはず。切り捨て御免がまかり通る時代なら、自分の身を守るために、言葉で見ず知らずの相手の立場が判断でき身分を推定できる敬語は便利だ。
 身分制度がなくなって、かなり年数を経た現在では、絶対に敬語を使わなくてはいけないという場面や強い拘束性は減った。そういう中でどのように敬語を使うかをみると、その使い手個人の思想がそこはかとなく感じられる。
 たとえば、周囲の友人が教師の悪口を言っている中でも例文1のような言葉づかいを崩さない人は、教条主義的な人と思われるかもしれない。相手や状況次第で例文1や例文2の使い分けをする人は、実利主義者と思われるかもしれない。どんなかしこまった席でも例文2のような言葉づかいをする人は、反社会的な素質があると思われるかもしれない。
 現代の敬語は、地位を表すというよりも、その人のスタンスを表している。

 かつてない敬語の使用例が広まると、「日本語の乱れ」とされ「間違った日本語が流布されている」と非難されるが、敬語の利用実態が変わるのは、多くは社会通念に変化が起きているからだ。考え方が変わればスタンスも変わる。
 思想や観念は時代によって変化するから、ちょっと聞きなれない言い回しに目くじらを立てる前に、どうしてそういう言い回しが増えたのかを推察すると、時代の雰囲気が見えてきたりして面白い。

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